高千穂町と日本神話


 高千穂町は「日本神話」に縁のある地として知られています。日本神話は日本の創世記の様子を物語った神話で、「古事記」(712年)、「日本書紀」(720年)、各地の「風土記」などにまとめられています。


国見丘のニニギノミコトと大クワ・小クワ像
(国見丘に建っているのは、株式会社神楽酒造前社長の寄付によります。)

天孫降臨と「高千穂」

 乱れた地上界を治めるために、天界から遣わされたのがアマテラス(天照大神)の孫(=天孫)・ニニギノミコトでした。この場面が、いわゆる「天孫降臨」です。「古事記」、「日本書紀」、「風土記」などの出典によってかなり表現が異なりますが、日向國風土記逸文には「高千穂」の地名の由来も記されています。(詳しい資料へ

日向國風土記逸文の要旨

 ニニギノミコトが臼杵の郡の二上の峯に降り立った。しかし辺りは暗く何も見えず、立ち往生してしまう。そこにツチグモ族の大くわ・小くわと名乗る二人が現われ、「ミコトがお持ちになっている稲穂から籾を取り、四方に撒けば、きっと晴れ渡るでしょう。」と言う。ミコトがそれに従うと、みるみる空が明るくなり、日と月が輝き始めた。これにちなんで、この地を「高千穂」と名付け、後に「智鋪」と改められた。

高千穂論争
 日本神話を研究する「国学」が盛んだった江戸時代以降、天孫降臨の地をめぐっては「臼杵高千穂説」と「霧島高千穂説」が「高千穂論争」を続けています。実際に論文の数を比較すると「霧島高千穂説」の方が支持者が多いようです。しかし近年、梅原猛氏が本居宣長の唱えた「高千穂移動説」を再評価したことから、この考え方が注目されつつあります。(詳しい資料へ)また、直木賞作家の長部日出雄氏は梅原説とは逆の移動説を唱えられています。
 なお、臼杵高千穂説では天孫降臨の地を、高千穂町内のくしふる峰、二上山、祖母山などと解釈しています。


天孫降臨神話・ゆかりの地


二上山(ほたるの里ふれあいセンターから)



「岩戸隠れ」の神話

 日本神話の中でも最も有名な逸話の一つでしょう。古事記と日本書紀の双方に書かれている物語ですが、古事記の方がより詳しく描写されています。
 弟・スサノオ(素戔嗚命)の悪行に困り果てた太陽神・アマテラス(天照大神)が岩屋戸(洞窟)に引きこもってしまったので、この世は真暗闇となってしまいました。他の神々は、なんとかアマテラスを連れ出そうと、策を練ります。騒動の発端となったスサノオは、この後天界を追放されてしまいます。この岩戸隠れの神話をモチーフにしたのが、高千穂神楽の中でも「岩戸」と呼ばれるいくつかの舞いで、「手力男」、「柴引き」、「鈿女命」、「戸取り」、「舞開き」など、高千穂神楽三十三番の後半の山場として人気があります。(天岩戸神社については「宗教遺産」のページ参照高千穂神楽については「祭りと伝統芸能」のページ参照。

古事記上巻 「天の石屋戸」の要旨
 恐れたアマテラスは「天岩屋戸」の扉を開き、中に閉じこもってしまわれた。そのため天界も地上界も暗闇となり、ずっと夜の状態が続いた。邪神達の声が世に満ち、さまざまな災難が起こりました。そこで神々は「天安河原」に集った。知恵のあるオモヒカネの案により、鶏を集めて鳴かせ、また川上から取った固い石で天金山の鉱石を鍛えて鏡を作り、また「まが玉」の珠を作り、また天香山からオスジカから肩の骨とハハカの木を取って来て占いをしました。天香山のサカキを根こそぎに抜いて、上の枝にまが玉を取り付け、中ほどには鏡を掛け、下には白布・青布を下げ、フトタマがこれを御幣として持ち、アマノコヤネは祝詞を唱えました。タヂカラオは岩戸の横に隠れました。アマノウズメは天香山の植物をタスキとカツラにし、笹の葉の束を持ち、岩屋戸の前に桶を伏せ、それを踏み鳴らしながら踊り狂い、胸元を露わにし、衣の紐も股まで下げ垂らしました。その様子に天界はどよめき、神々は笑い合いました。
 不思議に思ったアマテラスは岩の扉を少し開いて、中から尋ねた。「私が引き籠もったことで、天界も地上界も暗闇だというのに、何故アマノウズメは踊り、他の神々も笑っているのですか?」 アマノウズメは「あなた様よりも高貴な神様が現われました。それで喜んで笑い踊っているのです」と答えました。そう言っているうちに、アマノコヤネとフトタマが御幣の鏡(太陽神の象徴)を差し出して見せると、アマテラスはますます不審に思い、少しずつ岩戸から出て外の様子を窺おうとしました。その時隠れていたタヂカラオがアマテラスの手を取って岩屋戸から引き出すやいなや、フトタマはその背後に注連縄を掛け、「もうこの中に戻ってはなりません」と言いました。こうして、アマテラスは天岩戸からお出ましになり天界も地上界も明るくなりました。


岩戸隠れ神話・ゆかりの地


 
天岩戸神社西本宮にある戸取の明神の石像                             天安河原



岩戸大平の小戸の檍ヶ原水神


吾平山陵

宮内庁指定の日向三代の陵墓は、

  1. 天津日高彦火瓊々杵尊の可愛山陵=鹿児島県川内市宮内町
  2. 天津日高彦火火出見尊の高屋山上陵=鹿児島県姶良郡溝辺町
  3. 天津日高彦波瀲鵜草葺不合尊の吾平山上陵=鹿児島県肝属郡吾平町

に指定されています。
(西山徳他著「みささぎ巡礼〜天皇の遺跡をたどる〜」日本教文社、1979年)

臼杵高千穂説では、

  1. 天津日高彦火瓊々杵尊の可愛山陵=宮崎県東臼杵郡北川町可愛山陵
  2. 天津日高彦火火出見尊の高屋山上陵=宮崎県西臼杵郡高千穂町大字押方高屋山(神塚山)。及び、大字河内小河内の田原1号古墳(積石塚)。
  3. 天津日高彦波瀲鵜草葺不合尊の吾平山上陵=宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井吾平の吾平山陵(高千穂11・12号古墳)

などの説があります。
大字河内小河内の田原1号古墳は、積石塚で「鉄刀が出土して東京大学の筧克彦博士に渡した。」という話も地元に伝わっています。現在では近世の修験道の道場跡という説が有力です。

  
田原1号古墳の頂上部分の石積み     田原1号古墳の手前の無銘の自然石立石5基                田原1号古墳近景

  
二上神社               二上神社の看板               神塚山(高屋山)

吾平山陵は三田井吾平の吾平山陵(高千穂11・12号古墳)という伝承があります。古い文献には前方後円墳とありますが、現在では、2基の円墳と考えられています。

  
吾平山稜の看板            高千穂11号古墳               高千穂12号古墳


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