(資料)天孫降臨・高千穂論争(2つの高千穂)
日向國風土記逸文での「天孫降臨」
「日向の國の風土記に曰はく、臼杵の郡の内、知鋪(=高千穂)の郷。天津彦々瓊々杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を排けて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に、天暗冥く、夜昼別かず、人物道を失ひ、物の色別き難たかりき。ここに、土蜘蛛、名を大くわ・小くわと曰ふもの二人ありて、奏言ししく、「皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」とまをしき。
時に、大くわ等の奏ししが如、千穂の稲を搓みて籾と為して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り光きき。因りて高千穂の二上の峯と曰ひき。後の人、改めて智鋪と號く。」
【参考文献】
秋本吉郎校注「日本古典文学大系2風土記」岩波書店、1958年
古事記での「天孫降臨」
「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降りまさしめき。故爾に天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、天津久米命是に詔りたまひしく、「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」と詔りたまひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原の氷椽多迦斯理て坐しき。」
【参考文献】
倉野憲司・武田祐吉校注「古事記・祝詞」岩波書店、1993年、(P129)より
日本書紀での「天孫降臨」
「時に、高皇産靈尊、眞床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊々杵尊に覆ひて、降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、くし日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、そ宍の空國を、頓丘から國覓き行去りて、吾田の長屋の笠狹碕に到ります。」
【参考文献】
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本書紀 上」岩波書店、1993年(P140)より
※注;日本書紀では複数ヶ所に「天孫降臨」が記されています。すべて「一書に曰く」という引用によるものであるためそれぞれに表現が異なっており、天孫降臨の地も上記「高千穂峯」の他に「くしふるの峰」「二上峰」「添(そほり)の山の峰」などと記されています。
【参考文献】
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本書紀 上」岩波書店、1993年
※注;日本書紀では複数ヶ所に「天孫降臨」が記されています。すべて「一書に曰く」という引用によるものであるためそれぞれに表現が異なっています。
高千穂神社所蔵 「天孫降臨」
高千穂(北→南)移動説(本居宣長氏・平田篤胤氏及び梅原猛氏)
本居宣長(1730年〜1801年)は、高千穂は二説あり、どちらか決めがたいと述べています。
「彼此を以て思へば、霧嶋山も、必神代の御跡と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく、高千穂と云て、まがひなく、信に直ならざる地と聞ゆれば、かにかくに、何れを其と、一方には決めがたくなむ、いとまぎらはし。」(『古事記伝』十五之巻)
また、本居宣長は、二説併記のみならず、移動説も提示しています。
「つらつら思ふに、神代の御典に、高千穂峯とあるは、二処にて、同名にて、かの臼杵郡なるも、又霧嶋山も、共に其山なるべし、其は皇孫命初て天降坐し時、先二の内の、一方の高千穂峯に、下着賜ひて、それより、今一方の高千穂に、移幸しなるべし、其次序は、何か先、何か後なりけむ、知るべきにあらざれども、終に笠沙御崎に留賜へりし、路次を以て思へば、初に先降着賜ひしは、臼杵郡なる高千穂山にて、其より霧嶋山に遷坐して、さて其山を下りて、空国を行去て、笠沙御崎には、到坐しなるべし」(『古事記』十七之巻)
梅原猛氏は、「天皇家の“ふるさと”日向をゆく」新潮社、2000年の中で本居宣長説を踏まえて、ニニギノミコトが稲作技術を持って笠沙御崎に上陸したが、シラス台地は稲作に適した場所ではないため、弥生時代中期から後期頃に臼杵郡の高千穂に入り、西都から霧島へ移動する説を唱えています。
高千穂(南→北)移動説(長部日出雄氏)
長部日出雄氏は「天皇はどこから来たか」新潮文庫2001年、「天皇の誕生〜映画的『古事記』」集英社2007年、「『古事記』の真実」文春新書649、2008年では、梅原説とは逆の移動説を唱えています。長部氏は青森県出身で三内丸山遺跡の発見から縄文時代に関心を持たれ、縄文早期の上野原遺跡の発見から南から北への移動を唱えています。
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