高千穂町の信仰と宗教

神道・仏教・修験道・「お大師さん」信仰・庚申(こうしん)信仰・キリスト教


高千穂町の神社と神道
 神話伝説に恵まれた高千穂地方には古くから多くの神社が祀られています。寛保3年(1743)には高千穂郷(現在の高千穂町・日之影町・五ヶ瀬町・諸塚村)18ヶ村に554社(当時村家5戸に1社の割合)という記録もあります。しかし、明治初期の宗教改革の中で地区ごとの一社に統合・整理され、社名もその地名をつけたものに変更されていきました。
 この地域の神社特色は天津神を祀る「天神社」(菅原道真公を祭る「天満天神」とは異なる)が多く、鎌倉時代以降は熊野信仰が盛んになり、熊野神を祀る神社も数多くあります。

高千穂八十八社
 高千穂郷にあった多くの神社の中でも「別格の神社」88社を意味します。室町時代の文明13年(1481)の文書にもすでに「高千穂八十八社」の言葉が使われており、その起源はかなり古いと思われますが、選定の基準や意味づけはよくわかっていません。明治の宗教改革により、廃止・統合された社もあります。(八十八社一覧へ

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高千穂町の寺社と仏教
 寺院の歴史も古く、その多くは曹洞宗と天台宗でしたが、慶長年間(1596年ごろ)からは浄土真宗の普及で改宗も盛んに行われました。また江戸時代までは各神社に併設されていた寺院も多くあったようです。現在、町内に12寺院(浄土真宗5・曹洞宗5・日蓮宗1・天台宗1)があります。

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神仏習合と明治の仏教弾圧
 江戸時代まで、日本の神道と仏教は融合しあい、神社境内に寺があるのが珍しくない時代が続いていました(神仏習合)。慶応4年(=明治元年)に出た神仏分離令は、当時の日本の宗教界に大きな波紋を呼びました。これは高千穂でも例外ではなく、神社に安置されていた仏像などはこの分離令を期に撤去されました。また仏教弾圧(廃仏毀釈)により多くの寺院が廃寺となり、現高千穂町内で存続できた寺は正念寺(上野)と教願寺(向山)のみでした。神仏のつながりが強かった下野村の八幡宮・八幡山鶏足寺(現在の下野八幡大神社)では、住職であった僧が神官に転身するという事態まで招きます。
 寺院の再建が進むのは、明治12年に政府が方針転換して以後の事で、多くの寺が復興し今日に至っています。また、神仏習合の習慣が明治の分離令で完全に廃れてしまったわけではなく、石仏を御神体とする神社が現存する地域もあります。



修験道
 修験道は古来の山岳信仰に仏教(密教)、さらに道教や陰陽道が複雑に融合しあい独特の発達を遂げた複合的宗教です。南紀熊野地方で発達した熊野系修験と英彦山(福岡・大分県境)で独自の発達を遂げた英彦山系修験の2系統の修験者たちが高千穂地方に浸透し、祖母山系や諸塚山一帯などで修行が行われていたようです。
 しかし明治初期の宗教改革で修験道は禁じられ、衰退します。当時の修行所であった三田井村の大仙院、大円坊、岩戸村の大乗院、上野村の修善院の修験者たちもやむなく神道に吸収される道を選んだとされています。神仏分離のため不明瞭になってはいますが、「高千穂の夜神楽」の中にも修験の影響を垣間見ることができます。


「お大師さん」信仰
 高千穂の民間信仰の特色の一つに、弘法大師への篤い信仰があります。これは仏教の真言宗信仰とはやや異なり、高僧・弘法大師という人物に対する崇拝といえるようです。「お大師さん」という親しみを込めた呼び方も、その現われでしょう。町内各地には「茶堂」と呼ばれる大師堂があり、旅人に休憩所として提供されました。「茶堂」は、しばしばバス停などに形を変えつつも、今日まで受け継がれて、年3回の大師祭りの日(旧暦1、3、7月の各21日)には「お接待」と称して通行人に飲食をふるまわれます。浅ヶ部地区には天保6年(1834)年に四国霊場を模して開かれた八十八ヶ所の霊場に大師が祀られています。この他、河内地区には明治年間と昭和初期の2種類、岩戸秋元にも明治年間、上岩戸には日之影町見立赤水を含めた昭和51年の四国八十八ヶ所が祀られています。上野地区にもありますが、現存するのは少数です。明治時代の作品には石工甲斐有雄の活躍があります。

 
浅ヶ部88ヶ所霊場の看板                    浅ヶ部88ヶ所の碑


お大師さんのおせったい(三田井吾平六角堂)

庚申信仰と庚申塔
 60年に一度の庚申(かのえ・さる)の年の庚申の日の夜、人の体の中に住む「三尸(さんし)の虫」が、人が眠っている間に天帝へその人の行状を告げ口に行くといわれます。このため人々は相集って祭事を行った後、飲食をしつつ(しばしば酒宴となって)日の出を待ちながら徹夜をします(「庚申待ち」・「お日待ち」)。仏教・神道・陰陽道・道教などが結びつきあった民間信仰で、もともと全国的に見られた習俗だったようです。高千穂では昭和55年の庚申の年にも町内各地で催されました。
  路傍や山中に建てられている石碑・石塔類には様々なものがありますが、中でも比較的数多く見られるのが「庚申(こうしん)塔」と総称されるもので、上記の行事の記念碑として村境などに建立されたものです。大きく分けて「奉待庚申」などと刻字されているもの、「猿田彦大神」(神道系)などと刻字されているもの、「青面金剛像」(仏教系)が彫られているものの3形式があり、また自然石による無銘石碑の中に庚申塔と考えられるものもあります。またこれらの「庚申塔」には道標としての意味もあったようです。

  
左:青面金剛(河内奥鶴)利吉作  右:青面金剛(下田原宮尾野)


明治〜戦前のキリスト教伝道
 明治20年頃から、英国のキリスト教団体CMS(教会伝道協会)の伝道師・J.B.ブランドラム氏や日本人伝道師・古閑武平氏らが中心になり、熊本を拠点に大分や延岡など東九州各地への伝道活動を活発に行いました。当時上野村にあった「講義所」でも10〜21人の信者が礼拝に参加していたようです。同氏の帰国(明治33年・1900)の後は、延岡を拠点としたS.ペインター氏らがこれを引継ぎ、少なくとも大正時代まで、三田井、上野、田原各村での礼拝などが行われていた記録があります。またブランドラム氏を初め歴代の外国人キリスト教関係者たちが田原や五ヶ所に避暑地として滞在していたようです。
 終戦直後の昭和20年8月30日に発生した親父山の米軍機B29墜落事故(B29・隼墜落悲話のページ参照)の直後、事故現場調査に同行した田原村の矢津田義武村長は犠牲者慰霊のためあり合わせの材料で十字架を立てさせました。矢津田家は戦前に宣教師達と交流のあったとのことです。

【参考文献】
「延岡聖ステパノ協会寄せ集め百年史(粗原稿その一)」 延岡聖ステパノ協会百年史委員会
「平和の鐘」 工藤寛、平和祈念碑建設実行委員会、1991


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