熊本県教育委員会中学校道徳教育郷土資料「くまもとの心」より
「道しるべ」
広いすすきの原を歩いてきたたび人が足を止めました。わかれ道のところにカッチン、カッチンといっしんに石をきざんでいる人がいます。
「あ、あなたですか。あちこちに道しるべを立ててくださっているという方は。」と、たび人がたずねますと、
「道にまよう人がないようにと思ってやっていますが、仕事の合間のことで、なかなかはかどりません。」と、答えたのは、甲斐有雄という人でした。
有雄は、文政12年(1829)、熊本県の東のはて阿蘇郡野尻村(今の高森町)に生まれました。
そのころ野尻は、たび人の行ききも多くてさかえた村でした。まわりの野原は広々として、村々をつなぐ道がいくつも通っていました。しかし、そのほそい道には、道しるべがありません。その上、夏は先見えないほど、せの高い草がしげります。冬は雪がつもって、畑の道もわからなくなります。それで、たびになれた人さえも道にまよってしまうのでした。いちど道にまよったら、すぐにたすけてもらうことはできずに、行きだおれになってしまう人もありました。野尻でそだった有雄は、うでのよい石工になりました。石をきざむ仕事をしながら、こう思いました。
(そうだ、この石工のうでで野原に道を知らせるための石をたてよう。雨がふっても、風がふいても、いつまでものこる石の道しるべを立てるのだ。そうすると、道にまよう人がたすかるぞ。)
有雄は、大きな石を大野川の谷ぞこからさがしました。それを一つ一つ牛に引かせてはこびました。
その石に、「右、たかもり、左、のじり」などと書いて、心をこめて一字一字をほります。一つ二つと、有雄がきざんだ道しるべは、村の四つかどや、まよいやすいようなわかれ道に立てられていきました。道を通る人は、その文字を見てどんなにほっとしたことでしょう。
有雄がきざんだ道しるべは、野尻村だけでなく、近くの村や町にも、また、宮崎県や大分県にもつぎつぎに立てられました。とうとう、そのかずは、千八百二十四にもなりました。有雄は、ふだんは家の仕事にはげんで、村のせわ役もつとめました。また、おもしろい話をしたり、歌をつくったりすることがすきでしたから、道しるべに自分がつくった歌をきざむこともありました。おもしろい歌のことばは、道行く人をなぐさめてくれました。たくさんの人のいのちをまもりつづけた有雄の道しるべがつくられてから、およそ百年がたちました。雨風で古くなっていても、その石は、道ばたのそこそこに見ることができます。
野尻村の中ほどには、有雄がなくなる前の年に村の人が立てた有雄の記念碑が残っています。
五ヶ所山の神を調査する甲斐有雄研究家、富高則夫さん 河内中河内の甲斐有雄の「夢見石」の看板 河内中河内の甲斐有雄の「夢見石」
国道325号線寧静ループ橋にある甲斐有雄歌碑 看板 歌碑
亀頭山城跡にある甲斐有雄道標公園 看板 「右ながさき」
「祖母山山道」 「右鳴瀧神社 左宮崎」 「河内平戸1714」
「右広戸」 「西1576」 「梶原1589」
「藤野家1822」 「梶原佐藤健一氏倉下」
「南岩本香巳氏」 「上野笛原」 「千弁づる」
天眞名井 高天原遙拝所
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