石碑・石橋など、主に非宗教的石造文化財をご紹介しています。
北原白秋歌碑
白秋は、明治18年柳川市に生まれました。昭和16年3月28日に来町した時には、眼病のためほとんど目が見えない状態でした。翌17年11月57才で死亡・歌・詩・童謡・随筆・論評集など著書200冊以上を残しています。
碑歌は来町後に詠み、高弟の木俣修に与えたもので、来町を記念し昭和24年、白秋を慕う有志らにより高千穂峡に建立されました。
高千穂碑
くし觸峰の南側の小高い丘に高千穂碑があります。この碑は1967年(昭和41年)、高千穂町名誉町民故甲斐徳次郎氏の発意で建立されました。碑には天孫降臨を伝える「日向国風土記逸文」と、大友家持が残した「万葉集」の「古歌」が刻まれています。
高千穂碑
その他の石造物
町内の路傍や山中にはいろいろな石塔・石碑・石祠類が残されています。宗教的意味あいのものが多いですが、庚申塔、五輪塔、熊塚などその形式や意味づけは多様で、中には由来などが不明のものもあります。
五輪塔・宝筐印塔などは高僧や武士・有力者などの墓ないしは供養塔であると考えられており、寺跡・城跡などの周辺に多く見られます。庚申塔については信仰のページを、熊塚については民話と伝承のページを参照してください。
下野堺野矢野家五輪塔
石橋
No. | 橋名 | JPG | 所在地 | 備考 |
1 | 久兵衛橋(関橋) | 大字上野 | 1863年(文久3年)3月に竣工。 | |
2 | 八雲橋 | 大字上野 | 現在、埋没中! | |
3 | 高橋 | 大字下野字谷 | アーチは江戸?その上に大正〜昭和初期の積み上げがあり、かつてはバスが通っていた。現在は廃道となっており、地積図では河川となっている。 | |
4 | 轟橋(左目木橋) | 大字岩戸(上永の内公民館区)字左目木 | 岩戸文書に石工「卯市」の図面や古文書あり。高千穂町コミュニティセンター所蔵。 | |
5 | 小祝原橋 | 大字上野字祝原 | ||
6 | 栗原橋 | 大字上野字栗原 | ||
7 | 菅野尾橋 | 大字五ヶ所字菅野尾 | ||
8 | 旧仏谷橋 | 大字下野字雲井都 | ||
9 | 広木野橋 | 大字下野字広木野 | コンクリート巻きされている。 | |
10 | 陣内橋 | 大字下野字広木野 | ||
11 | 八幡橋 | 大字下野字八幡平 | ||
12 | 丸小野2号橋 | 大字向山字丸小野 | ||
13 | 松能橋 | 大字三田井字松能橋(小手川石油GS横) | コンクリート巻きされている。 柄木田文明「中条唯七郎『九州道中記』第2巻@〜高千穂〜」『成蹊論叢44号』2007.4.10のP56に中条唯七郎が天保2(1831)年9月26日の記録で、「小石橋あり。」とあるのが松能橋のことと思われる。 |
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14 | 第一富野尾橋 | 大字上岩戸富野尾 | 昭和26年。 | |
15 | 納田川上流眼鏡橋 | 大字三田井字中組と字塩市の境 | 平成21年2月9日に石橋研究家の贄田岳和様から発見のメールがあり、コンクート橋と思われていましたが石橋であることがわかりました。しかも、付近に竿石があり、「天保…」と読めるとのことでした。 町建設課の橋梁台帳にも載ってなく、外見はコンクリート橋であったので、知られていませんでした。 「のんでん(納田)川と上流の比波里川 は同一河川で、この橋のあたりはのんでん(納田)川上流にあたる。のんでん川は、納田川が訛ったものではないか。」との説を花田忠則三田井北公民館長さんからお聞きしました。さらに「菊宮神社の神楽の為に田を納めたので納田となったらしい」とのことです。 早速竿石を確認したところ「天保九戊戌四月」とあり1838年で、宮崎県最古のえびの市の靉靆(あいたい)橋 の享保14年(1729)には及ばないもののこれまで県北最古とされていた日之影町深角橋の天保11年(1840)より2年古い橋であることがわかりました。 現在、竿石は、盗難防止策で、コミュニティセンター(歴史民俗資料館)玄関へ移動し、展示しています。 |
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(16) | 鶴の平橋(古眼鏡橋) | 大字向山字鶴の平 | 日之影町境 | |
(17) | 谷城橋 | 大字向山字谷城 | 日之影町境 | |
消滅 | 河内橋(明治橋) | 大字河内 | 明治15年甲斐有雄の石碑が現存。 | |
消滅 | 笹の原橋 | 大字五ヶ所字笹の原(三神堂横) | 欄干標柱のみ現存。 | |
消滅 | メガネ橋 | 大字押方 正一位稲荷社〜草津原 |
天保9年の石碑が現存。安在かずお「西臼杵の姓氏40−4徳永氏」『かるめごNO.120』平成16年4月号、JA高千穂地区 | |
厳密に言うと、実は、コンクリート橋でした。 | 神橋 | 大字三田井字御塩井(高千穂峡、あららぎ茶屋横) | 石橋研究家の岡崎文雄氏も「アーチ内側をコンクリート巻き。」とかつては判断されていたが、その後、土木学会図書館の蔵書から「コンクリート橋の外面を高千穂峡の風致をそこねない様にと、ここで取れた石張りにした」との当時の飯田土木部長の記事が出たので、石橋ではなくなりました」とメールが来ましたので、訂正します。 |
【参考文献】
岡崎文雄(日本の石橋を守る会、大分の石橋を研究する会)「宮崎県西臼杵郡の石造アーチ橋)」平成12年5月31日
安在かずお「西臼杵の姓氏40−5徳永氏」『かるめごNO.121』平成16年5月号、JA高千穂地区
石工・甲斐有雄
甲斐有雄翁は、文政12年(1829)8月1日、肥後国阿蘇郡野尻村字尾下り多田野(今の熊本県阿蘇郡高森町大字野尻字尾下)の広戸というところで生まれた石工です。生涯に約2500を越える道標や神仏像などを残した社会福祉家でもありました。
熊本県教育委員会では中学生用の道徳教育郷土資料「くまもとの心」に「道しるべ」という題で甲斐有雄翁のことが書かれています。(詳しい資料)
大字河内在住の郷土史研究家、冨高則夫さんは甲斐有雄翁についての本を数多く出版され、甲斐有雄翁の道標のいくつかを亀頭山城の公園に屋外展示されています。
町内の景色の良い場所で歌を詠み、「田原八景」「河内指野八景」「河内八景」「下野八景」など「八景」を日記などに残しています。
【参考文献】
冨高則夫「広野の灯〜甲斐有雄翁伝〜」1995年2月24日
冨高則夫「甲斐有雄翁彫刻写真集」1997年4月27日
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