烏八臼(うはっきゅう) 烏八臼は、室町時代末から江戸時代後期の墓標等に見られ、曹洞宗や浄土宗関係の墓地に多く見られます。 字の意味からいろいろな解釈が考えられています。 (1)鳥の意味。 (2)鳥を追うサギに似た「■(=鳥へん+鯢のつくり)」の変化したもので、この鳥名を墓標に彫る事で供え物に近づく鳥を追払う。 (3)日月の意味。 (4)優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)。 (5)梵字合字の崩れ。 (6)吽(うん)の合字。 (7)大迦葉が成仏の印として弟子に授けた字形。 (8)烏八臼の臼のきゅうは「き」すなわち「帰」と八の「き八」に臼の「う」を加え「き九」すなわち帰空を表す。 (9)カンタンと読み「ついばむ」の意味。昔、屍(しかばね)を林の中に捨て、鳥についばませて空に帰るよう墓碑の頭に用いた。 有力な説は、 「(10)■(=ク+日へんに鳥)(かん、たん)の変形。この一字は「随求経」の「随求阿羅尼小呪」にも「俺佐羅野拏瑟■(=ク+日へんに鳥)布羅耶莎賀(オンサラヤドシツタンフラヤソワカ)」とあり、本来、瑟■(=ク+日へんに鳥)の2字をもって発音し、滅罪成就、成究の意味を表す。」と言われています。 天草や人吉などでは、キリシタン関係として考えてある論文も数多く見られます。 高千穂町の場合、2例とも曹洞宗龍泉寺の隣接地に分布しており、また1例は墓以外の庚申塔でもあることから、多少意味合いは異なるかもしれませんが、 何らかの願いを込めたお目出度い文字として曹洞宗関係の僧侶の知識が働いて作られたものと思われます。 §1.上野養老禅庵の烏八臼 上野の龍泉寺の裏山「玄武城跡」の山麓にあったとされる養老禅庵の敷地内にあります。砂防ダム建設工事に伴い移設することになり、宮崎県文化課が試掘を行いましたが、石碑に伴う墓壙などは見られませんでした。 「○八臼烏洞月妙桂禅定尼」「??三甲午天十一月日」「老子敬白」と彫られています。「??三甲午天」は、玄武城などの年代から考えて、「天文3年(1534)」と「文禄3年(1594)」が考えられます。高さ106cm、幅56cm、厚さ21cmの尖頭舟形の板碑です。八臼烏は縦に重なる形です。 §2.上野龍泉寺境内の烏八臼庚申塔 上野の龍泉寺の境内に建っています。奉待タイプの庚申塔に烏八臼が見られます。 「天明八戊申」「八臼烏奉松庚申所願成就」「十一月吉日」とあり、高さ93cm、幅43cm、厚さ16cmの板碑です。天明8年は1788年です。八臼烏は八+臼へんにつくりが烏の形です。 【参考文献】 磯貝長吉「墓標文字烏八臼に憑れて」『郷土よこはま56・57号』横浜市図書館、1970年。15〜26頁。 山上茂樹「山上茂樹翁ききがきノート」『多摩のあゆみ7号』(財)たましん地域文化財団、1977年5月。76〜77頁。 豊永鈴蘭「肥後相良今昔史誌」人吉新聞社、1979年。201〜202頁。 坂口雅柳「唐梵字銘碑考」『肥後考古第2号』肥後考古学会、1982年。17〜35頁。 北郷泰道「烏八臼〜使用下限を示す新資料について〜」『宮崎考古第8号』、1982年。21〜23頁。 五木村総合学術調査団「五木村学術調査〜人文編〜」155頁。 「日向民俗第46・47号」烏八臼特集、日向民俗学会、1994年。 人吉カトリック教会「人吉にキリシタンがいた〜新人吉キリシタン考〜」1994年。115〜119頁。 濱名志松「九州キリシタン新風土記」葦書房、1998年。451〜455頁。 延岡郷土史料婦人学級OB会ひみこ「10周年記念誌〜延岡の石塔を訪ねて〜」(上巻)、1996年。89〜90頁。 川島恂二「■(=八+臼へんに烏)(ハツ・キュウ・ウ)の意味」有明の歴史と風土第20号』有明の歴史を語る会、1998年。2〜5頁。 緒方俊輔「烏八臼へのロマン」宮崎日日新聞地域発信2000年1月21日。 緒方俊輔「また発見『烏八臼』」宮崎日日新聞地域発信2000年3月12日。
上野養老禅庵の烏八臼の板碑 上野龍泉寺境内の烏八臼の庚申塔
※ネットに書いていますが、個人の持ち物ですので、見に来られたい場合は、事前に御来町の日時などをご連絡いただくと幸いです。勝手に来られても、観光地でありませんので、地元の方から「どこから来た人ですか?」など言われる可能性があります。
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