宮崎日日新聞の「地域発信」へ掲載された記事のうち、当館学芸員の記事全54回のリストです。オリジナルが縦書きであったため、数字の表記など見難いところも有るかと思いますがご了承ください。また、登場人物の肩書きなども掲載当時のままですのでご了承ください。なお、「地域発信」欄は宮崎日日新聞の担当者さんが定年退職され、新聞紙面改革によって現在はなくなりました。続きは「窓」掲載記事をご覧ください。なお、このHPへの掲載にあたりましては、宮崎日日新聞「窓」欄担当者様からのご了承をいただいております。
第1回(1996年5月16日)
苗字が語る地域の歴史
緒方 俊輔
資料館へは全国各地から歴史についての問い合わせの手紙が連日のように届いているが、ある時、東京在住の田崎不二夫さんから苗字について質問の手紙があった。「元禄年間に肥前や肥後から来たらしいけれども田崎姓について情報を知りたいので手紙を書いた。高千穂町は電話帳で調べると田崎姓の比率が一・五パーセントと宮崎県一位のため何か残ってあったら教えて欲しい。」とのことであった。 石川恒太郎氏によると田崎姓は大江姓今富系統と藤原氏系統とがありともに肥前から出ているという。高千穂町の田崎氏については田崎晋也さんの家系図によると、初代田崎出羽守は肥後国益城郡河江郷曲野城主宗市正家の家老で天正年間に島津との戦いで曲野城が落ち、城内の法華寺に埋められ、肥後国碇村に移った後、高千穂三田井に来たとある。代々三田井村の庄屋を勤め九兵衛と名乗った。 直接、田崎不二夫さんからの質問に対しての答えにはならなかったものの、曲野城の家老であったという情報は貴重な発見である。 私は県教委が平成五年度から進めている中近世城館跡緊急分布調査の委員でもあるので、家系図の中に城の情報が残っていた事に大変な興奮を覚えた。 早速、次の休日、熊本県立図書館に行って、曲野城について調べてみた。熊本県教育委員会「熊本県の中世城跡」一九七八年と松橋町文化財保護委員会「松橋町史資料」一九六三年と松橋町「松橋町史」一九七九年に記載を見つけたが、城主については阿蘇家臣鈞野民部少輔であるとか、弓術に秀でた辻姫という女性であったとか書かれていたが、家老については何も書かれていなかった。 縄張図が紹介されていたので、帰り道に現地に立ち寄ってみたところ、「囲」「辻の屋敷」「古屋敷」「法華寺」等の地名が残り、現在でも空堀や土橋の遺構が残っていた。城自体は周囲を湿地帯に囲まれた丘陵にあった。 田崎家系図には城内の法華寺とあるが、縄張図では法華寺は城の北西の湿地帯の対岸にあり城外になっている。もしかするともっと大きな範囲の城だったのかもしれない。 囲集落の中心に曲野神社があった。境内に寄付者の一覧表があったが田崎姓を見つけた。 民家に埋もれた家系図から熊本県松橋町曲野城について新たなことがわかってきた。このような例は、まだまだ探せばたくさんあると思われる。皆さんの家の家系図を今一度調べてみてはどうだろうか。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第2回(1996年6月12日)
どんぐりクッキーの味
緒方 俊輔
高千穂町教育委員会は、学校の週五日制の導入に伴う社会教育の受け皿として少年少女サークル活動を行っている。平成七年度は、今流行の体験学習としてどんぐりクッキー作りを行った。これは、平成六年秋に大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館で開催された「縄文人の世界」展でも来館者に試食を体験して頂く企画を行っていたので私も是非やってみたいと思っていたことであった。 今からおよそ一万年くらい前から二千三百年くらい前の縄文時代の我々の祖先は、狩猟採集の生活を行っていた。山形県押出遺跡出土の炭化物は、分析の結果動物の血や肉や野鳥の卵をつなぎとし、食塩で味付けし、野性酵母で発酵させたクッキーであった。 一口にどんぐりと言っても、そのまま食べることができるものと、アクが強く流水に二週間浸けてアクを流す必要のあるものとがある。シイの実はそのままでも食べることができるが、カシやクヌギはアクがあるので処理が必要である。特にベレー帽のような帽子があるものはカシなので、注意が必要である。シイはバナナの皮のようにむける殻があるので、図鑑などを参考にしていただきたい。 さて、実際にシイの木を探して拾うわけだが、神社の鎮守の森に行ってやっと見つけることができた。神社に子供が集まるように計画的に植樹されたことを考えると、現代の我々も公園の樹木にもっとシイを使うべきだと考えた。 今回は、アク抜きの時間を省くためシイの実を使うことにした。ただ、シイの実は小さいので栗の実も混ぜた。本来は刷り石で製粉したいところであるが、時間短縮のためジューサーを使って粉にした。動物性油としてバターと卵それに蜂蜜で味を付けた。本来は石焼であるが、食品衛生を考え、鍋とコンロを使って焼いてみた。こんがりキツネ色に焼き上がったクッキーを早速試食してみた。澱粉の粒子が粗く、一応甘かったが、物に恵まれた現代っ子にとっては、決して美味とは言えないようだったが、それだけにいかに彼等が恵まれているかがわかったのではないだろうか。 しかしこのような知識は本来は遊びの中から自然と教わっていたことで、博物館で教えるようになった背景には、子供の遊びの変化と自然破壊があるだろう。 材料の入手が比較的簡単であったことは自然が残る田舎町ゆえのことであり、この体験を通して学んだことは、何も古代人の知恵だけでなく自然保護や環境問題という大きなテーマでもあったと思う。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第3回(1996年7月12日)
病気のカモシカ騒動
緒方 俊輔
今年の春先は、相次いでカモシカの死亡事件があった。まず最初は二月末に上野道元越で皮膚病で毛が抜けたカモシカが保護されたが、看病の甲斐無く死亡した。前・宮崎大学教授の中島義人氏によると、ダニに侵されたものらしい。続いて、延岡市の猪須克巳さんが親父山登山道で死骸を発見した。こちらは、既に動物に食べられており、骨だけであった。さらに四月になって、岩戸永之内でダニに侵され毛の抜けたカモシカの死体が発見された。 幸い、これらはダニが原因であった様なので一安心であるが、最近学会誌に気になる記事がある。 それは、山上哲史・高橋公正・杉山公宏・植松一良・野口泰道・幡谷亮・須藤庸子「東京都下で発生した野性ニホンカモシカのパラポックスウイルス感染症」『日獣会誌四九号』∴鼡繼纔Z年という論文である。それによると、パラポックスウイルス属は、ポックスウイルス科に属する二本鎖DNAウイルスで、牛等の偶蹄家畜への伝播も予想され、犬や猫あるいは人に発症した報告もあり、注意が必要とされている。 種を超えて感染する病気としては、最近イギリスで騒がれている「狂牛病」が有名である。羊や山羊のスクレーピーという病気が、人間が牛の餌にスクレーピーに感染した羊や山羊の肉を混ぜたことが原因で牛に伝染したらしい。 西臼杵郡内は、「高千穂牛」ブランドでも知られるように畜産農家が多く、早速、カモシカの死因についての問い合わせが相次いで資料館に入ったことは、言うまでもない。何とか状況を説明して安心していただいた。 最近、某紙のコラムに狂牛病と薬害エイズ問題を絡めた記事があり、役所の責任を問う内容があった。 日本においては、羊のスクレピーは発見されているが、狂牛病は発見されていない。また、日本の牛肉はアメリカとオーストラリアから輸入しており、イギリスからは無い。そして、イギリス政府は狂牛病に感染した牛と同じ餌を食べた牛全てを処分した。 我々カモシカ保護担当部局としても、混乱を防ぎデマに流されることなく、科学的根拠に基づいた研究成果の情報提供に勤めなければならない。病気についての研究とその予防策への正しい理解を皆で深めて行きたいものである。 文化庁「カモシカ保護管理マニュアル」∴鼡繼纔Z年びよると、ダニ等による死亡例は、六%とあるが、今年は特に相次いだ。自然環境の変化を示す人類への警告かもしれない。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第4回(1996年7月28日)
幻の梶原平横穴墓
緒方 俊輔
高千穂町古墳台帳での古墳は、合併前の村名に通し番号で整理されている。旧田原村の田原古墳の中で最も南に位置するものは、田原南平横穴墓である。しかし、最近になってさらに南の梶原平に横穴墓があったことが明らかになった。 高千穂町役場財政課勤務内倉信吾さん宅の仏壇の引き出しから鉄鏃(鉄製の矢じり)六点が発見されたのである。それらは、信吾さんの父、肇さんが梶原平の横穴墓から発見したものらしかった。 次に、河内在住の富高則夫さんの著「広野の灯〜甲斐有雄翁伝〜」一九九五年によると、「梶原の古穴のもとに建る碑に明治三三年 『もののふのあるしはきえて無き跡の志るしに建るこれの石ふみ』」とあり、遺構の存在を示すものであった。 実際に現地を訪れると、明治三二年の供養塔が残っており、昭和四十年代にも農地造成工事で複数の横穴墓が破壊されたと古老が語ってくれた。 このような「床の間の文化財」が語る歴史は数多くあるが、近年テレビのバラエティ番組で骨董品の鑑定番組があるが、一般の方にとっては、お金に換算するといった感覚の方が悲しいかな根強く残っているようである。発掘調査の現場でも、「小判出ませんか。」という質問は非常に多い。 お金だけの考え方ではなく、心の豊かさを追及する姿勢を今こそ養うべきであると考える。 今日のように埋蔵文化財担当の専門職員がまだいなかった時代であり、残念ながらその価値を知られることもなく破壊されてしまった遺跡の数は多い。遺跡は一度破壊してしまうと二度と蘇らない。我々の時代だけでなく、未来の子孫たちにも、また日本だけでなく世界中の人達にもその情報を残す必要がある。後世の人たちに何やってんだと言われないためにも、埋蔵文化財担当専門職員の適正数配置は必要不可欠な問題である。 埋蔵文化財は、文字通り埋もれている文化的財産である。その対象は地面の中だけでなく、民家の床の間や人々の記憶や日記等の記録の中にも存在していた。 すでに破壊されてしまった梶原平横穴墓のような遺跡の中に民家の床の間に眠るものは多いと思うが、心の豊かさを共有するために近所の博物館へ連絡され寄託されることをこの場をお借りして呼びかけたい。 また、今後、発掘調査前に破壊される遺跡がないように文化財保護部局とちても調査体制を充実させる必要がある。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第5回(1996年9月7日)
かっぽんたんの話
緒方 俊輔
高千穂町が進めている「シンワプラトー」計画(三田井地区温泉開発事業)に先立っての埋蔵文化財「吾平遺跡」での発掘現場脇の草むらで、草の葉につかまって体を震わせている一匹の毛虫がいた。
地元の方は、その虫を「かっぽんたん虫」と呼んでいた。「かっぽんたん」と呼ばれる草を食べる毛虫で、葉の裏側にとまって、体をブルブルと震わせる習性があるらしい。福岡市出身の私は、毛虫の話以前に「かっぽんたん」と呼ばれる植物のことすら意味がわからず、どんな草でなぜそう呼ばれるのか、不思議に思って尋ねてみた。
「かっぽんたん」とは、植物図鑑によると、カラムシと呼ばれる植物で繊維を取るために植えらていたそうである。人指し指と親指とで輪を作り、そこに葉っぱをロートに「ろ紙」をはめる要領ではめ込み、反対側の掌で蓋をするように勢いよくたたくと「ポン」という大きな音がするので、子供の遊びに使われたとのことであった。
早速、歴史民俗資料館の書庫で「子供の遊び」関係の文献を検索してみた。「高千穂町史」「伝承ながのうち」「たかまがはら」「たばる」…等と調べてみたものの該当するものを見つけることはできなかった。「民俗学の宝庫」ゆえに未調査の事項があったのかとも思ったが、原因はそれだけでは無さそうだった。
と、言うのもいずれの本も著者は大人であり、子供の視点で書かれたものでは無かったためであった。
現在、宮崎県ではフォレストピア(森林理想郷)事業をすすめているが、このような都会には無い田舎の魅力こそもっと注目して行く必要があるのではないかと思う。各市町村史の民俗学の記載についても、このような「子供の遊び」を取り上げる必要があると考える。
ファミコン世代の子供達に「子供の遊び」といった民俗文化を伝えて行くことは大切なことであり自然保護・環境問題にもつながる最も身近な材料ではないだろうか。
近年の学校のクラブ活動は、どちらかと言うと体育系に力を入れている所が多いが、文化系クラブ、特に郷土研究クラブにも力を入れていただきたいと思う。そのためには、地域のお年寄りのみなさんへの聞き取り調査が必要であり、公民館や老人会や史談会としての取り組みとしても素晴しい材料であろう。
「ムラおこし・町おこし」といった地域の魅力づくりの材料は、我々が気がつかないだけで、足元にごろごろ転がっている。
(高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第6回(1996年10月10日)
情報考古学の世界
緒方 俊輔
今年四月、帝塚山考古学研究所の堅田直教授が「情報考古学」(ジャストシステム・定価税込千七百円)という本を出版された。近年、考古学の分野でも発掘調査現場での測量や遺物や遺構のデータの分析で多変量解析などの統計ソフトを用いている話の他、インターネット上の情報提供などの話が紹介されている。 高千穂町でも遺跡測量システム「カタタ」を導入、実測図作成を行っている。 これは、光波測距儀のデータをパソコンに取り込んで図面を作成するものである。これまでの遺跡の測量では、平面図を作成し、それから高さのデータを書き込み、断面図や立面図などを作るといった手間を必要とし、途中で雨が降ろうものならば、清掃作業の後、測量といった大変な作業であった。遺跡の測量は一般の土木の測量とは異なり、業者に外注するにしても手直しが必要であり、手慣れた業者であっても費用がかかっていた。「カタタ」導入後は、一度に三次元データを取り込むことができ、大幅な時間短縮が図ることができるとともに、縮尺についてもパソコンで自由自在に設定できるので、何枚も取る必要はなくなったのである。特に等高線図作成については、マッキントッシュ版の等高線図作成ソフト「マック・グリッツォ」によって大幅に手間を省くことができる。 幸い高千穂町では、光波測距儀を農地整備課が備品として持っており、借用することができたため、安価で導入ができた。九州でも、東背振村・鎮西町(佐賀県)・若宮町(福岡県)・熊本大学などでも導入されている。 統計分析の分野では、林知己夫氏開発の「数量化理論3類」は、質的情報を分析対象とすることができるため、考古学での色や形などのデータをも扱えるる。これらのソフトは以前は大型機でしか作動しなかったが、最近パソコンでも作動するソフトが登場し、手軽に使える様になった。 データとソフトが判っていれば、誰が試しても同じ結果が出るということは、主観を排した客観的な研究となることを示すもので、生涯学習が叫ばれる今日、研究の門戸を広げることにつながるものである。 パソコン通信では、日本最大のニフティサーブの歴史フォーラムに考古学研究室という掲示板がある他、インターネット上では帝塚山考古学研究所や岡山大学考古学研究室などのホームページが考古学情報を提供している。 「温古知新」の考古学界に「温新知古」の時代がやってきた。(高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第7回(1996年11月13日)
神楽舞を支える人々
緒方 俊輔
神楽シーズンになると、毎年決まって渡り鳥のようにやってくる神楽ファンの方々がいる。この常連さんをその熱狂ぶりから「神楽オタク」と呼んでいる。今回は、その中の何人かを紹介し、彼等をそこまでさせる魅力に迫ってみたい。 福岡市在住の遠藤公義さんは、十六年間毎年通って八ミリビデオ撮影を行っている。三田井地区のほしゃどん達とも顔なじみで、四年前から撮影したビデオを編集し、その上映会を自宅で行っている。上映会場の自宅には御幣やえりもののコレクションが所狭しと飾られ、さしずめ資料館といった所。勿論、神楽宿さながら、カッポ焼酎や煮しめも用意され、神楽で知り合った神楽ファンやほしゃどん達を招待している。 宮崎市在住の帆足晶子さんは、黒口と河内地区ファンで女性ということもあってか、ほしゃどん達と仲良しになって、神楽歌や唱行など専門家が欲しがる資料も持ってあり、研究者としては有難い方である。 次に、佐賀県基山町在住の南育雄さんは、年中裸足にサンダルという格好で八ミリビデオ片手に回ってあるが、椎葉・諸塚・銀鏡とフィールドが広い。 福岡県岡垣町在住の広渡孝さんは、プロカメラマンで民俗芸能関係の写真誌では名前が知られている。 大分県湯布院空想の森美術館長の高見乾司さんは、仮面の研究家で、「火の神・山の神」(海鳥社・定価税込二千六百円)一九九五年の著者でもある。 また、「神楽を描く〜宮崎神楽紀行〜」(鉱脈社・定価税込千八百円)一九九四年の著者、画家の弥勒祐徳さんも各地区でご活躍である。 紙面の都合で省略させていただくが、他にも多くのファンの方が、三十三番夜を徹して見学に来られる。 彼らを毎年足を運ばせる魅力とは何であるのか。高千穂神楽は、神道のみならず、修験道や陰陽道などの影響を受け、狩猟伝承の一端も残す。江戸中期までは神社で行われていたが、後期以降民家を神楽宿として舞われるようになった。 最近は、住宅事情から公民館や神社社務所の地区も増加しているが、地区の祭りとして町内二十の地区で夜神楽が残っている。地区毎に受け継がれてきた素朴なリズムと舞は、見た人に感動を与え、再び訪れさせる。 観光神楽とは違った本物感、一夜の参加者としての一体感、目で見て、耳で聞いて、舌で味わって、心で体験した感動がリピーターを呼ぶのであろう。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第8回(1997年2月9日)
祖母山の一角獣伝説
緒方 俊輔
大分県の登山家、故・加藤数功さんは著書「祖母、大崩山群」(しんつくし山岳会∴鼡繻ワ九年)で、『祖母山に龍駒と呼ばれる頭に一角がある馬がおり、高千穂町五ヶ所の笈の町の佐藤家の斑馬との間に仔馬が生まれたが、この仔馬は斑馬で一角があった。仔馬の死後、角は佐藤家にあったが、質に入れられ大分県へ流れた。』と記している。 昨年十一月初旬、高千穂町五ヶ所の甲斐英明さん宅を大分県弥生町のKさん夫妻が訪れた。Kさんは何と龍駒の角を家宝とされているとのことで、加藤氏の著書に登場する五ヶ所の笈の町という場所に一度訪れたいと考えてあった。地元の小学校の記念行事で家宝を展示する催しがあった際、「我が家には馬の角がある。」と話したところ、文字通り馬鹿にされた。それでくやしかったので他人には見せていないけれども、調査をしたくて訪れたとのことであった。 祖母山と言えば蛇の伝説は有名であるが、一角獣の伝説があったとは、故・興梠敏夫氏から聞いたことはあったが、文字や物的資料としては初めてであった。 年の明けた一月中旬、我々は「龍駒の角」の実物を拝見するためにKさん宅を訪ねた。メンバーは甲斐英明さんと私、そして県北の自然を語る会会長で獣医の工藤寛さんであった。 虫食いによる損傷がひどかったが、由緒書から文久二年(一八六二年)に伝わったもので、Kさんの御好意で資料館に御寄贈いただいた。 坂本竜馬の名前にもある龍馬とは、龍と馬の間の子供で足が早い馬のこととされている。頭に一角があるものとしては麦酒会社の名前にもある麒麟(キリン)が有名である。日本書紀では天武天皇九年(西暦六八一年)二月に葛城山で肉と毛が一部着いた角が拾われたが、形が対象的に分かれているので不思議な角で、麒麟の角かもしれないので献上したとの記載がある。 横浜市の馬事公苑にある「馬の博物館」に問い合わせたところ、北海道大学の八戸芳夫教授の著書「馬\この素晴らしき友」(共同文化社∴鼡續ェ六年)の「馬にも角が」という記事を送ってもらった。熊本県荒尾市と福島県とで馬に角があった例があり、皮膚の角質化現象が頭で発生した極めて珍しい例とのことであった。 突然変異という生物学上にも、と同時に伝説という民俗学上にも貴重な資料である。ムラおこしの材料としても、ロマンをかき立てる好材料で、祖母山をPRする上でも、人々の心を駆け抜けてもらいたい。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第9回(1997年3月8日)
考古学とマンガの話
緒方 俊輔
天岩戸温泉の玄関前に、拳大の赤く焼けた石群と有田焼の陶板で作られた看板がある。石群は、温泉建設に先立って行った岩戸五ヶ村遺跡の発掘調査で発見された縄文時代早期の「集石遺構」と呼ばれる調理施設の跡であり、看板にはその説明がある。この看板には文字の説明だけでなく、発掘調査を担当した県文化課の戸高眞知子さんの描いたマンガが載っている。考古学業界での戸高画伯の活躍は有名で、熊本県城南町歴史民俗資料館「縄文ムラのくらし〜ヒロとマコの黒橋ムラ探険記〜」平成五年においても名前が知られている。 太宰府市教育委員会は、マッキントッシュ及びウインドウズ対応CD−ROM「遠の朝廷大宰府」(海鳥社・定価税込五千八百円)を制作し、パソコンで大宰府の歴史を学べるソフトを作った。中でも堀さんという髭面で眼鏡をかけたキャラクターは同市教委の発掘調査担当職員S氏にそっくりで、わかりやすく説明してくれる。 福岡県筑紫郡那珂川町教育委員会の「那珂川町の文化財〜平蔵遺跡群の発掘調査〜」一九九一年では、発掘調査担当者の宮原千佳子画伯のマンガで遺跡の紹介がされている。 仮面ライダーでおなじみの石ノ森章太郎さんの「マンガ日本の歴史」(中央公論社)のシリーズは、時代考証もされていて、遺跡説明会などの資料を作る際にしばしば参考にさせて頂いている。 東京都文京ふるさと歴史館はイメージキャラクター縄文くんと弥生ちゃんの博物館グッズを作成し、販売している。 国立歴史民俗博物館副館長の佐原眞さんは、「考古学をやさしくしよう」と提唱されている。 考古学の用語一つにしても難しい印象を与えてしまいがちであるが、子供から大人まで広く考古学の楽しさを学んでもらうためには博物館学芸員としてもニーズにあわせたメニューを準備する必要がある。 世田谷区郷土資料館での古墳めぐりのビデオでは、女優の伊藤つかささんが出演して古墳の紹介をしている。 山口県豊北町の土井ヶ浜人類学ミュージアムの展示では、見学者自身が弥生人と縄文人のどちらに似ているかを調べるパソコンコーナーがあり、有名俳優を例としてあげている。 当館は内田康夫著「高千穂伝説殺人事件」角川文庫で紹介されているが、今後も様々なメディアで紹介し少しでも多くの方々に興味を持っていただく工夫を研究しなければならない。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第10回(1997年4月3日)
押方籾崎の牛の鋤入れ
緒方 俊輔
高千穂町内では、旧暦一月十四日の行事として船入れ・松入れ・牛の鋤入れが行われている。船入れや松入れは、出産や結婚等の祝い事があった家に近所の人が家の人に知られないようにして、船や松を持ち込んでお祝いする行事で町内各地に伝わっている。しかし牛の鋤入れは、押方籾崎地区にしか残っていない。 村の一軒一軒を、わらで角を作って頭にかぶり牛にふんして、鋤を引いてまわる農耕儀礼で、その主役は小学生から中学生までの子供達である。 「カチカチ」と拍子木を叩き、「今晩は。牛の鋤入れに参りました。」と元気な声で挨拶すると「モウモウ」と鳴きながら座敷に上り、畑に見立てた座敷を鋤を引きながら三回程廻って、最後に木の切り株に見立てたオヤケ(♂ニ主)を角でほぐり(′@って)倒して終了する。 そして、食事の接待やお菓子や文房具などの御褒美をもらって次の家に行く。 本来、旧暦一月十四日の行事であるが、主役である子供達の都合で今年は旧正月の二月八日に行われた。ちょうど牛年ということもあってか、マスコミの取材が非常に多く、事前の問い合わせも例年にない量であった。私もまだ見たことが無かったので今年こそはと追跡取材を決行した。籾崎地区は全部で十四軒の集落であるが、全てを廻ると、夕方六時からスタートしても夜中の十二時近くまでかかる。年々子供の数は減少しており、今年は史上最低の六人であった。近い将来、高校生まで年代層を広げるか、地区外から若い人が入ってきて子作りをしない限り、する人がいなくなる時期が来るかもしれない。 子供が主役なので、例えばテレビのアニメが始まると釘付け状態になって足止めをくらったり、もてなしの連続のため終わりの方では胃袋が疲れたり、トイレの回数が増えたりとハプニングも多かった。 隣の家の人のこともあまりわからない都市から来た私にとって、村全体が家族のようなこの地区はすごく温かいものを感じた。特に各家々での「○○ちゃんは何年生になったとかい?」とのやりとりが印象的であった。村の一員としての子供の成長を村人全体で見守り、村の将来を託しているように思えた。十四軒全部廻った後の子供達の両手には、サンタクロースか大黒様のように袋一杯のお菓子がはち切れんばかりであった。ちょうどそれは、大人達から子供達への希望の証しのようであった。 過疎と少子化で存続が危ぶまれるが、いつまでも続いて欲しいものである。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第11回(1997年4月21日)
ある伝道師の足跡
緒方 俊輔
先日、資料館を延岡市の聖ステパノ教会の山崎貞司牧師が訪れ、初代ブランドラム牧師の足跡を探しに資料収集に来られた。ブランドラム牧師の名前は、日本近代登山の父と言われる英国人登山家のウエストンの名前と共に「矢津田日記」 の明治二十三年十一月六日に見え祖母山を登山したとある。また、遡って明治二十年八月二十六日に高千穂町上野で伝動したことが記されていた。 「矢津田日記」には、キリスト教徒であるために結婚を反対された騒動等も記されており、異文化に対しての地元の人々のとまどい等も知ることができた。 山崎牧師から「延岡聖ステパノ教会寄せ集め百年史」(以下「百年史」)という冊子をいただいたが、それによると、「矢津田日記」にも登場する古閉武平さんや中島武次郎さん等の名前があった。彼等は苗字から高千穂の人ではないことは明らかであったが、どこの人かはわからなかった。「百年史」によって、キリスト教布教のために外国人牧師と一緒に同行していた関係者であることがわかった。さらに、「百年史」にはシェルダン・ペインター牧師は、延岡で自転車に三番目乗ったらしいとか、明治四十三年に福岡在住の九州監督アーサー・リー夫妻が延岡で最初に自動車に乗ったことも記してあった。一方、「矢津田日記」にはアーサー・リー夫妻は大正二年十月二十七日に自動車で高千穂に来たことが記されていた。 文明開化の驚きが生々しく記されており、私は、矢津田鷹太郎さんの筆まめさに改めて感動を覚えた。 話は変わって、昭和二十年八月三十日、米国の飛行機B29が熊本市にある連合軍捕虜収容所(POW)に物資を運搬中に、親父山に墜落し、十二名の若い乗組員が命を落とした際、遺体収容の陣頭指揮をとったのは、鷹太郎さんの三男の義武村長であった。二人づつ六つの墓を作って六本の十字架を建てて仮埋葬をしたのである。 戦後五十年目の平成七年八月の二十六日に五ヶ所高原三秀台に「平和祈念碑」が建立された。除幕式には米国ユタ州から二人の遺族が訪れ、墜落直後に義武村長が十字架を建てた話をしたところ、大変感謝されていた。 国籍や宗教が違っても家族愛や平和等、心通じるものがあるということに私はジーンときた。 五ヶ所高原三秀台に響くウエストン碑と平和祈念碑の鐘の音が、国境や宗教を越えて、人類共通のメッセージを送っているかのように聞こえた。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第12回(1997年6月30日)
辺境の文化から学ぶ
緒方 俊輔
先日、トカラ列島の中之 島の十島村歴史民俗資料館 を訪ねた。鹿児島港から村 営汽船で八時間、中之島港 に着いた。港から徒歩約一 時間、島の最高峰の御岳の麓に資料館があった。展示込みの総工費七億円で、運賃を差し引いても、実に立派な建物であった。 悪石島では旧盆に三日間 盆踊りを行うが、最終日に 「ボゼ」という仮面神が登 場する。善悪未分化の原始 的な神で、神楽等の芸能成 立の前段階の神であるとい われている。その風貌は、 素人目にも大変日本離れし ており東南アジア風の印象 を受ける。「マラ棒」とい う棒で女性や子供達をつつ いてまわる様子は、高千穂 神楽では岩戸地区の八鉢にも見られる。 高千穂でいう「カルイ」 という背負いカゴは、本土 に多く分布し、ランドセル 状の二本の綱で背負う。一 方、沖縄では綱は一本で太 く、頭の前方(おでこ)に 廻して背負うタイプ。そし てトカラでは綱は一本であ るが、カゴの後方で交差さ せ本土同様、ランドセル状 に背負うという。 辺境の地ゆえに文化と文 化が交差して独自な文化が 花開いているという印象を 受け、感動した。 高千穂でも例えば弥生時 代後期の土器を見ると大分 県大野川流域の「工字状突 帯甕」と、熊本県の「免田 式長頚壷」とが共に出土す るが、今後さらに高千穂ら しさを発見しなくてはとい う思いに駆られた。 高千穂神楽の「八将軍( 八将神)」の御幣に似た御 幣で「八人幣」とか「火の 神」とかいう御幣も展示し てあった。和紙に小さな透 かし窓を開けた形は良く似 ていたが、微妙に違っても いた。こちらも実測図や写 真等の客観的な資料化をし てみたいという願望に駆ら れた。 昨年度は吾平原と車ノ迫 という二つの横穴墓群の十 四基を発掘調査し、うち吾 平原五号墓と車ノ迫一号墓 から馬具の轡(くつわ)を 出土した。トカラ馬は古代 の馬に近いと言われ、馬具 装着の復元図を描く上で参 考になりそうである。 資料館の説明で、辺境の 地であるからこそ、「日本 の文化とは何か?」を知る 上で重要であると言ってい たのが印象的だった。過疎 の町ゆえに都会にない魅力 を発見できる。 観光案内によると世界の 名作「宝島」は、実はモデ ルがトカラ列島の宝島であ るそうである。 そういう意味において、 トカラはまさに宝島である と言える。 同様に高千穂、いや、奥日向も、「宝の山」いや、 「フォレストピア(森林理 想郷)」でありたい。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第13回(1997年7月27日)
吾平原北6号横穴の保存
緒方 俊輔
平成八年度高千穂町教育委員会は、高千穂町が進めるシンワプラトー事業の町立病院建設に先立って、埋蔵文化財「吾平原北横穴墓群」の発掘調査を行った。 調査の結果、古墳時代後期(今からおよそ千五百〜千四百年前の六世紀)のこの付近を治めた豪族のお墓で、阿蘇凝灰岩の崖面にトンネル状に部屋を彫り込んだ横穴墓と呼ばれる墓十基を確認した。中でも、二号四号・五号・六号・八号の五基は未開封の横穴墓で、三号墓は近世に陥没、七号墓は古墳時代に陥没後、入口を作り替えた痕跡があった。一号・十号墓は、盗掘されていたが、盗掘し残しの遺物があった。九号横穴墓は破壊が著しかったが、平面プランをつかむことができた。 遺物では、六号墓から玉類一千点、五号墓から馬具の轡(くつわ)、二・八・十号から長刀が出土した。 古代の高千穂においてこの周辺は、興梠氏の里として重要な地域である。残念ながら直接的に誰が眠っているのかはわからなかったが、これらの調査成果は重要であり、後世に残しておきたいものである。 平地の確保が困難であること、設計費用に既に多額 な投資をしていること、そして何より財政難であることから、現地での保存は困難であった。また、用地確保が可能としても、阿蘇凝灰岩の風化のため公開中に崩壊する可能性もあり、見学者への安全対策や公開後のメンテナンス等今後の課題も多かった。 しかしながら、何らかの形で残せたらという気持ちは、開発部局側とも一致した。そこで縮小模型を作っることになり、見積りのために業者に来てもらった。すると、「これ本当に壊してしまうんですか?はぎ取り転写という方法でせめて六号墓の墓室だけでも表面の皮一枚ですが、本物を残せますよ。」とのこと。縮小模型ならば予算さえあればいつでもできるが、はぎ取り転写は現物が壊される前しかできないのだ。 できれば六号墓の墓道も残したかったが、ベンガラ(酸化鉄)の赤色で塗られた壁面の様子だけでも本物が残せれば、墓道は予算がついてから摸造品を作ればよいのだ。このことは、幸いはぎ取った部品の置き場の確保を解決してくれた。墓道を含めると三米幅で長さ十米の床面積が必要となるが、墓室だけなら三米四方で資料館になんとか納めることが可能であった。 予算も何とか補正することができ、現在、資料館の古墳時代の展示コーナーに展示中である。 是非とも多くの人々に見てもらいたいものである。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第14回(1997年12月1日)
地区に残る御弊の謎
緒方 俊輔
縄文時代の土偶や奈良時代の土馬や人形をはじめ雛祭など、人形は人の身代わりとして各種のまじないや儀式に使われてきた。 神楽の中でも、人形御弊が使用されている。高見乾司著「火の神・山の神」海鳥社∴鼡繼繻ワ年は、銀鏡神楽の「ユーギ」を紹介している。銀鏡神社の神木 イチイガシの根元と神社の本殿を結ぶ位置に供え、和紙に細かな透かし穴が開いているのが特徴である。 渡辺良正写真・渡辺伸夫文「椎葉神楽」平河出版社∴鼡繼纔Z年によると、椎葉村夜狩内では「人別」と呼ばれる御弊と焼酎を入れたカケグリを村の人口と同数だけ森の樹に供えるという。まさに村人一人一人の身代わりの役目である。 椎葉村栂尾では「クゼン」と呼ばれる九体の人形御弊を木の根元に供える。供膳の意味なのかは不明であるが、九体がつながった形をしている。 諸塚村南川でも「クゼン」と呼ばれる九体の人形御弊は、民家の庭に張り出して設けられた御神屋の左の俵に供えられている。一方、諸塚村戸下では「八子」と呼ばれる八体の人形御弊が南川同様の御神屋にあるが、こちらは右の俵に供えられている。 高千穂の夜神楽では、三田井系列の向山秋元・三田井浅ヶ部・三田井下川登・向山丸小野・押方嶽宮の五地区の内、押方嶽宮以外の四地区で「八将神(八将軍)」と呼ばれる人形御弊が今日まで伝えられている。 その供え場所は、向山秋元だけが広げて神棚(高天原)の上、他の三地区は竹に差して雲の上にある。 小手川善次郎著「高千穂の民家他歴史資料」∴鼡繼繹齡Nによると「暦書に八将軍があって地域八方の守護司命の事に任ずると言う思想は、つとに我が国の民間にも伝わり、或いは八王子の信仰ともなり、八雷・八竜等の思想も介入し、八将神の信仰と関連する、大将軍星への尊崇も、亦広く流布した。」とある。 八将神(八将軍)が無い代わりに「願成弊」を下げる地区は、日之影町大人系や岩戸野方野系にある。 結局のところ、人形御弊は未だ謎だらけである。 一般的に民俗芸能は、時間軸を設定しにくいため、今のところ分類による地域相を見ること程度であるが、今後古文書等の発見があれば時間軸上に並べ、系譜を追うことも可能だろう。 「民俗の宝庫〜奥日向」の魅力を多くの人々と楽しみたいものである。そのためには、人形御弊の形のように、県や市町村レベルで調査員の数を増員し、研究体制を充実させたいものである。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第15回(1998年2月12日)
市町村史を作ろう
緒方 俊輔
恐らく次の市町村長選挙 や市町村会議員選挙では、 「来たるべき二十一世紀に 」がキーワードとなるであ ろうことは誰もが予測でき ると思う。 そして市町村史を作った らどうだろうかと展開する であろう。このことは、大 変良いことだと思う。 しかし、ここで問題にな るのはどういった内容のも のを作るかである。 現在、各自治体が刊行し た市町村史の中には「地史 」では無くて「地誌」とい った内容のものも多いが、 可能であれば「地史」を作 るべきである。 そして、まずは史料編を 発刊し資料を一般に周知さ せ、研究者の論文等に解釈 を仰ぎ、最後に通史編を出 すべきである。 日之影町は宮崎県下でも 頑張ってあると思う。当初 は一冊通史だけを出す予定 であったらしいが、県史編 さん室等に指導を仰ぎつつ 史料収集を開始すると、と ても一冊通史に収まらない ことが判明し、路線変更で 今は民俗編・考古編・史料 編・サウンドスケープ(環 境音楽)編・通史編等、全 十二巻の予定で、編さん室 を設置し、複数年度で継続 して発刊するとのことであ る。 高千穂町でも最近、特に 民家の蔵に眠った古文書を 寄贈される方々が増加しており、それとは逆に解読ス タッフが高齢化とともに減 少化しており、古文書解読 講座など開いて解読スタッフを養成する必要性に迫ら れている。昔と違い今は、 ワープロやパソコンといっ た電子機器の発達で保存や 編集は元より、データベー スとしての検索や、さらに 画像や音声データさらに動 画も含めたマルチメディア で、それからインターネッ ト等を使って海外へ情報発 信が可能なご時勢である。 イベントで祭り気分に浸 って景気が良くなった気分 に酔い、地元の業者にお金 を落としたとしても、駐車 場の確保が充分でないと、 当然他所からのお客は少な くなり、外貨獲得も困難と なることは予測できる。都会の人はお金を出せば大概 のものはデパートで買える ので、田舎でしかない地域 限定版を欲しがるはずであ る。それゆえに、今こそ外 貨獲得のためには、市町村 史編さん事業の取組が急務 であると考える。そして、 その内容も購買力を興させ る内容の濃いものでなくて は売れ残ってしまう。その ためには編さん室を常設化 し、随時、資料の収集・編 さんを行う体制作りを進め るべきではなかろうか。 古文書解読やワープロ打 ち込みのボランティア等は 高齢化社会の生きがい作り にも貢献するのではないだ ろうか。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第16回(1998年2月22日)
神楽歌が語る歴史
緒方 俊輔
高千穂の神楽歌に「鴬が梅の小枝で昼寝して花が散るのを夢にこそ見る」という歌がある。「九州歴史大学講座『九州歴史』一九九四年八月号〜特集・神楽と伝説の道〜」の中の早稲田大学演劇博物館渡辺伸夫教授の「九州の神楽」という発表によると、これと似たものが、福岡市東区志賀島の志賀海神社の「八乙女(やおとめ)舞」に「鴬が花の梢に昼寝しておどろく度に花や散るらん。花や散るらん。」という歌が歌われるそうだ。 早速、志賀海神社に問いあわせたところ、一月十五日に「歩射(ふしゃ)祭」という祭があり、その際に「八乙女舞」があるとの情報を得た。私は、高千穂町文化財保存調査委員長で下野八幡大神社宮司の興梠弥寿彦氏と二人で見学に出掛けた。 さすがに日本海沿岸だけあって、北からの強い季節風を受け嵐のような天気であったが祭は行われた。 「八乙女舞」と聞くといかにも一七〜八歳前後の若い巫女さんを想像していたが、平均年齢はその4倍ほどのかつての娘さん(失礼)達であった。それだけに幸い昔からのお話をうかがうことができた。 お目当ての鴬の歌は二月十五日の祭の時にしか歌わないそうで、大変残念であったが、一月の歌の中にも高千穂神楽と似た歌があった。 「さお鹿の八つの御耳振り立てて白金の箱に黄金の量産を納めたもう。大明神に願いをかけ歩みを運ぶ衆生には額に米という字をかけさせ、この胸の間に曇りなり後生前生の雲晴れて望むこの世の願いを見てたもうなる。さては思うことなし。山川の瀬にこそ愛が山がこと。夜は御神楽。明日は喜び。明日は喜び。」 これは歌の長さは違うものの高千穂神楽の神楽歌の「今日の氏の御祈祷さお鹿の黄金の箱に納めまします。」と「さお鹿」・「黄金」・「箱」・「納める」が共通する。 渡辺教授によると、「中世以来、諸社の祭に神楽を勤仕していたのは法者(両部神道の験者)と命婦(巫女)であった。その後九州の神楽は、近世初期から吉田神道の神楽改革を受け、仏教的な要素を排除し、神道色が強まる。その影響の強弱により九州の神楽は様々な姿を示す。」とのことで、それだけに九州の神楽は重要とのことあった。 一般的に、いつの時代のものかわかりにくい民俗芸能も、古文書や各地に残る祭の中から当時の流行歌を追うことでそのヒントが見えてくる。各地の神楽を見に行きたい衝動にかれれる今日この頃である。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第17回(1998年4月23日)
先進地の活力学ぶ
緒方 俊輔
今年の二月十五日に福井県今立郡池田町の国指定重要無形民俗文化財「水海の田楽能舞」を見学行った。宮崎県が進めるフォレストピア森林文化集落保全活用事業の先進地視察研修のメンバーとして参加したからである。 「水海の田楽能舞」が国指定重要無形民俗文化財になったのは昭和五十一年五月四日と「高千穂の夜神楽」よりも二年以上早い。 パンフレットによると「田楽と能の両方を合せ持つ舞で、古い型が現在も生きた形で継承されて芸能発達史上高い価値がある」とのことであった。歴史も建長二年(一二五〇)北条時頼が諸国行脚の際、この地でで大雪のため足止めされ、村人達が時頼を慰めるために「田楽」を舞い、そのお返しに時頼が「能舞」を教えたのが始まりと伝えられている。 昼一二時、近くの水海川で三人の青年が褌一枚で禊をする。日本海岸の山沿の町のため雪が残っており、見ている方が寒くなってくる。一三時から一六時半まで、鵜甘(うかん)神社社殿では、烏飛び・祝詞(のっと)・あまじゃんごこ・阿満(あま)の田楽の後、式三番・高砂・田村・呉服(くれは)・羅生門の能舞が奉納された。 面は、残念ながら火災のため新しい面を使っていたが、舞いは、素朴の一語に尽きる印象を得た。 池田町は、福井市から車で約五〇分程離れており、交通の便が悪いため、地元氏子青年会がシャトルバスをチャーターし、お土産の生そばと手作りのしめ縄キーホルダーの他、おろしそばのバザー券をセットにして観光客を呼んでいたが、バスの中では観光案内もあり、大変好評で見習うべき内容であった。 人口四千人の町であったが、図書館と文化ホールと中央公民館と教育委員会事務局を複合した「能楽の里文化交流会館」は立派な建物であった。ちょうど「新作能面公募展」を行っていたが、全国から五六七面が集まり一堂に並んだ様は圧巻だった。 いつの日か「フォレストピア圏域の神楽面展」でも行ったら素晴らしいだろうなぁと思ったのは私だけではなく、椎葉民俗芸能博物館の永松敦氏も同じ意見であった。 パンフレットや図録等も教育委員会は元より、地元有志の手でも作成されており、ふるさとの文化を見直そうという意気込みが感じられ、我々も頑張らねばと感じた。 民俗芸能が残る地域は、「過疎」の問題を抱えていたが、元気な所を見習いたいものである。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第18回(1998年5月20日)
荒谷で出土の古銭
緒方 俊輔
前高千穂史談会会長の故西川功氏の所蔵されていた図書資料は、現在五ケ瀬町と高千穂町の教育委員会に寄贈され、西川文庫として生涯教育に活用されている。 私は、西川文庫の整理作業中に荒谷出土古銭と書かれた一冊のスクラップブックを発見した。中には西川氏によって分類された古銭がセロハンテープで一枚一枚貼り付けられていた。 「五ケ瀬町史」には、昭和三五年十一月十日に坂本区荒谷の畑で故・甲斐敏さんの長女福代さん(当時六才)が土いじり中に古銭を発見。高さ十五センチ、直径三十五センチ位のトガもしくはカヤ材の桶の中に入っていたと記されている。 出土状況は桶の材についても詳しく書かれていたが銭については坂本城跡とほぼ同じというのみで、詳しい種類や枚数は記されていなかった。 中世の出土銭については下関市立大学の桜木晋一教授や熊本大学の小畑弘己助教授によると、最新銭によっておよその編年が可能とのこと。早速、五ケ瀬町めぐみの森資料館と荒谷の甲斐春子氏に問いあわせ、錆落し作業を開始した。 その結果、西暦六二一年初鋳の開元通寶から西暦一四二六〜一四三三年の宣徳通寶までで、無文銭も含む総計二二三枚を確認することができた。西川氏の収集方法は各種類を一枚づつ集めるといったものの様なので、実際には資料が散逸した可能性が高い。 現時点で年代推定するとした場合、散逸資料に宣徳通寶より新しいものがあると年代は新しくなるが、最新銭が宣徳通寶で、しかも琉球銭の世高通寶を含まないままであれば、第六期の一六世紀初め頃と考えられる。 五ケ瀬町史には荒谷の古銭は坂本城跡の古銭とほぼ同じ内容とあったが、坂本城跡の場合、世高通寶があるので第七期の一六世紀前半頃となる。中世の出土銭貨の発見例の増加から研究が進み、より細かな編年が推定されるようになった。 今後、アジア的視野から見た生産地遺跡の発掘調査が進み、鋳型や材質の科学分析等が行なわれれば、流通関係等もわかってくるかもしれない。 坂本城跡の資料は六つの甕に入っており、三つが東京国立博物館、二つが県総合博物館、残り一つが五ケ瀬町専光寺にあるが、詳しい分析はまだである。推定四万五千枚とも言われているが、全部を整理分析すれば、量から言っても圧巻である。フォレストピア圏域を代表する中世の遺跡であり、資料館の展示の目玉になるのではないかと思う。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第19回(1998年6月19日)
B29平和サミットを
緒方 俊輔
栃木県立小山北桜高校の森一博教諭は、全国各地のB29の墜落事故を調査されている。 高千穂町では、県職員の工藤寛さんが親父山にツキノワグマの足跡捜しに登られた際発見した金属片がきっかけとなり、それが後に昭和二〇年八月三〇日に熊本市の連合国軍捕虜収容所に救援物資を投下する任務の途中で親父山に墜落したB29であったことがわかり、地元有志によって募金活動が行われ戦後五〇年目の平成七年八月に「平和祈念碑」が墜落現場を望む三秀台に建設され、除幕式にはユタ州からジョン・ディンジャーフィールド伍長とボブ・ミラー伍長の両遺族を招待した。同じく戦後落ちた例としては、秋田県男鹿市と福島県いわき市があるが、男鹿市では、奇跡的に助かったノーマン・マーチン軍曹を戦後四五年目に招待している。 戦時中の墜落例では、千葉県大多喜町ではブルース・ヤンクラスさん、千葉県東庄町ではゴールド・ワジンさんがパラシュートで降下したが、住民から危害を加えられることはなかったので戦後訪問されている。 戦時中の悲劇としては、大分県竹田市と大分県三光村等では、竹槍で突いたり、遠藤周作の「海と毒薬」にも登場する「九大生体解剖実験」等の事件がある。 大分県三光村では、墜落地点に近い八面山の中腹に平和公園を建設し、数多くの石碑を建設してあるが、その数はただ者ではない。 中でも搭乗員の故郷の州の石を地図の形に切って張り込んである石碑や、故郷の州の旗を送ってもらって掲揚する台はアイデアものである。中には当時カリフォルニア州知事だったドナルド・レーガン元大統領の手紙も展示してあった。 戦後半世紀以上が経ち、人々の記憶から戦争が年々うすらいで行く中、今こそこれらの歴史的事実を語り継いで行く必要を感じる。 西暦二〇〇〇年に先進国首脳会議(サミット)を宮崎でもという運動があるが、B29墜落現場をかかえる市町村が集まってサミットを開き、恒久平和を世界に訴えるようなイベントはできないものだろうか。墜落事故ごとの話をまとめて出版し、夏休みの読書感想文用の図書として指定されば平和教育を地域から発信できると思う。また、将来有名になり林間学校や修学旅行や遠足のコースに採用されれば、観光収入のアップにもつながる可能性を秘めている。 高千穂町の平和祈念碑奉賛会(代表・甲斐秀国氏)のメンバーの間では、今B29平和サミット開催の夢がふくらんでいる。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第20回(1998年7月19日)
佐陀神能を訪ねて
緒方 俊輔
本田安次氏によると、神楽は出雲系、伊勢系、江戸系、巫女神楽の四つに分類されるらしい。出雲系は採り物舞いで神話劇が特徴とされ、伊勢系は湯立て神事、江戸系は獅子舞が特徴とされている。 高千穂神楽は、採り物舞いで、神話劇を題材としたものも取り入れている点から出雲系に属している。 私は、ルーツを見てみたいと思い、九月二十四日と二十五日に二夜連続で行なわれる佐陀神能を見学に出掛けた。佐陀神能のある佐太神社は、八束郡鹿島町にあり、松江市から北へ車で十分ほどの所にある。祭神は猿田彦命を祭ってあり、九月二十四日に御座替え神事を行い、翌二十五日に佐陀神能を行っている。 十月を神無月と言うが、出雲では神有月と言う。全国から神様が出雲に集まるからだそうだ。そのためその前に御座を替える神事を行い、佐陀神能を奉納するそうである。 時間的には二晩とも、午後七時頃から十一時頃まで行われ、高千穂のように夜を徹しては行わない。 神楽殿で舞われるが、神楽殿が神社の本殿の方向を向いているため、三波春男の「お客様は神様です」ではないが、見物人は神様の気分で見る形になり、気分良く見学できた。 舞い自体は、素朴の一語に尽きる。舞いを図と言葉で表現しても薄いパンフレットで収まるもので、高千穂のように複雑で長いものはなかった。 神能では、面が登場するが、顔の長さに比べて大きな面で、大分県の豊後神楽にも似ていた。 太鼓は鋲留め太鼓で、笛は最後で高く上がって終わる演奏方法を取っていた。 ビデオに取ったものを神楽に詳しい小手川和郎氏に見せたところ、「豊後神楽にそっくりな演奏方法である」と教えて頂いた。 大分県の豊後神楽は、湯立て神楽も行っている。そこで出雲で湯立て神楽は行わないのかと尋ねたところ強く願いをする時は行うとのことであった。そうなると、伊勢系と出雲系の違いはわかりにくくなると思ったが、修験道の山伏達の影響やその後の神楽改革の強弱の差と考えた方が自然と思った。高千穂に湯立てが無いのは座敷という場所的な制約もあったのではとも考えたが、例えばかつては湯立ても行っていたとか、湯立てはふさわしくないのでしないとか書いた古文書でも見つからないと証明の仕様がない。 ルーツを訪ねての旅ではあったが、共通点も相違点も見えて来て、かえって謎が増え、神楽の奥の深さを感じた旅であった。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第21回(1998年8月5日)
奥三河古戸の花祭
緒方 俊輔
今年の一月二〜三日に愛知県北設楽郡東栄町の古戸(ふっと)の花祭に行った。天竜川の上中流の奥三河に残る湯立神楽である。本田安次氏の神楽の分類では伊勢系に属する。舞庭の中央に竈(かまど)が作られ、天井には高千穂神楽の雲に似た「湯蓋」やえりものに似た「ざぜち」が飾られる。 「歌ぐら」と呼ばれる神楽歌には、高千穂と似たものもあった。例えば、「伊勢の国高天原がここなれば集まり給え四方の神々」は「注連引けばここも高天原よなり集まり給え四方の神々」と似ている。また「神道や千道百綱道七つ中なる道が神の通う道」は「神の道千道百道その中に中なる道に神はまします」と似ている。 舞でも「翁」に登場する「おかめ」は岩戸地区の「伊弉冉命」とお腹が出た様子が子孫繁栄を表しており似ていた。五ケ瀬町古戸野系の「火の舞」での「へぐろ(灰)塗り」に似たものではひょっとこの五平餅の味噌塗りがあった。 「朝鬼」では茂吉鬼が湯蓋の中央に下がった蜂の巣を落す舞があるが、西都市の銀鏡神楽でも「白蓋鬼神」で白蓋から下がった蜂の巣をつつく舞がある。 願掛け神楽形式を採用しているので花(お金)を包むと神楽を舞ってくれる点は違っていた。そのため、願を掛ける人が多いと同じ神楽を見続けることになり帰りを急ぐ旅行者はハラハラし通しである。また、「せいど衆」という飛び入りの舞手が一緒になって舞う様子は違っていた。 結婚式が豪華な名古屋に近いだけあって花もレートが高そうだったが多くの花が上がっていた。ちなみに鬼が出る神楽が二万円、素面の舞いが八千円で、三千円以上の奉納者にはうどんや五平餅のバザー券と鬼のイラスト入りの特製湯飲みが配られた。 お酒も入り、「てほへ、てほへ」の掛け声の大合唱で夜を徹して舞われる舞は帰りの車の中でも耳に残るものであった。 その昔、白山修験の影響から成立したと言われ、生まれ清まりをモチーフとしている。この点は熊野修験の影響を受け、吉田神道の神道化、とくに太陽の復活の岩戸開きをモチーフにした点とも似ている印象を受けた。 私にとっての成果は、関係書籍を購入できたことであった。高千穂の小手川善次郎氏にあたる研究の先駆者は早川孝太郎氏であり、その後、様々な視点からの研究がなされている点は非常に参考となった。 たまには遠くに旅行に出てみると近くのことが見えてくるものだ。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第22回(1998年11月6日)
獣形勾玉の材質探る
緒方俊輔
今年の夏、私は天岩戸温泉館の裏側で高千穂町商工観光課の家族旅行村建設事業に先立って、岩戸五ヶ村遺跡の調査を担当した。温泉館造成の際も縄文時代早期の調理場の跡と考えられている集石(しゅうせき)遺構が十一基発見され、多数の縄文土器や石器が出土した。 今回も同様な時期の遺構があるだろうと予想したところ、縄文時代早期の上に縄文時代晩期の遺構が重なっていたことがわかった。 この晩期の面からは、県内で三例目の「獣形勾玉(じゅうけいまがたま)」が出土した。普通の勾玉とは違って、胎児の形を模した様な獣形をしている。県内発見の他の二例はいずれも高千穂町内の宮の前第二遺跡と陣内第二遺跡からのもので、ヒスイ製であるが、今回のものは黒色の石材であるが何かはわからなかった。 早速、地学に詳しい県埋蔵文化財センターの青山尚友氏へ鑑定を依頼したところ、外見の観察では、黒曜石か、いわゆる「那智の黒石」等と呼ばれる頁岩(けつがん)かのどちらかであろうが、傷を付けて硬度を調べるとわかりますよとのことであった。大切な遺物を壊すのは避けたいので将来的には、蛍光エックス線分析装置のある研究機関に分析を依頼することにしたいと考えたが、費用がかかる。 それならば比重を測ってみてはどうですかとのアドバイスであった。考古学の調査報告書でこれまでに寸法と重量は掲載しているが、体積の掲載は無かったため、比重の研究はあまり行われていなかった。 もちろん、その原因としては計測誤差の問題等もあったと考えられるが、いろいろな資料で統計的手法を取り入れながら実験してみるのも大きな成果ではないだろうか。骨そしょう症や体脂肪率が注目されるご時勢であるのだから。 そんなわけで、黒曜石か頁岩かを調べるために比重を測ってみた。頁岩の値に近かったが、もの自体があまりにも小さいため、測定誤差も考慮すると即断はできない値であった。結論は蛍光エックス線分析にまかせるとして、やってみることは一つの成果であった。もっと大きなものでは、比重も有効かもしれない。 古代ギリシャの数学者アリキメデスは、お風呂に入っている時に体が軽く感じたことから、比重や浮力を発見したという。たまにはストレス発散にゆっくりとしてみると良いアイデアが浮かぶものである。 高千穂町の天岩戸と高千穂の二つの温泉は、皆様のご来館を待っています。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第23回(1998年11月22日)
高千穂神楽が玖珠へ
緒方俊輔
民俗芸能でその始まりがいつどこから伝わったかがわかる資料は珍しい。 大分県玖珠郡九重町玖珠神楽は、享保五(一七二〇)年に高千穂神楽から伝わったとされる。昭和五六年に九重町教育委員会が発行した「文化財調査報告第八輯玖珠神楽調査報告書」では実際に高千穂神楽を見学した時の感想があり、共通点が少なかったとある。 文久三(一八六三)年の「大神楽歌」には、高千穂神楽と共通する神楽歌がいくつかある。 中でも重要な歌は鈿女の後の八乙女の「しのめやたんくわんさりさそふまとはやさゝくりたちぞな」である。この歌は最後の「たちぞな」を「たちばな」とすると猪掛け祭の鬼八眠らせ歌と同じである。 高千穂神楽では鬼八眠らせ歌は猪掛け祭でしか歌わないが。玖珠神楽にはあるのはなぜであろうか。 何らかのルートで歌本が玖珠まで伝わったのは間違いないと思うが、その後の神楽の変革によって両者に違いが見られるようになったのではないだろうか。 今のところその仮説を証明する証拠はない。 猪掛け祭に猪を捧げるようになったのは大人の甲斐宗摂のアイデアであると伝えられている。甲斐宗摂は「下克上」の戦国時代にそれまで主君であった三田井氏を暗殺した謎多き人物である。神楽は「まつりごと」として政治的・宗教的権力者・スポンサー等の前で行われたはずであり、長年の時代の流れによって変革・改造を受けたものと考えられる。 玖珠神楽の採り物の中で注目したいのは笹である。高千穂神楽で笹を振るのは猪掛け祭であり、その時歌う鬼八眠らせ歌とのセット関係は何か問題がある。 玖珠神楽は、福井県丸岡町の日向神楽よりも神楽歌の種類の豊富さや舞いの複雑さは高千穂神楽に近いものがあり、高千穂神楽の番付がある程度出来上がった頃に伝播したものと思われる。 今年四月の大分県神楽祭で大分県内の他の神楽と一緒に見る機会があったが、太鼓のテンポは他より静かで、斜め方向への移動もあり、高千穂神楽と極わずかであるが共通点もあった。 九月十四〜十五日に引地天満宮の祭でも行われたが、神社でありながら「えりもの」や雲があったのは驚きであった。「えりもの」は、十二支と五行と神楽で使う道具の図柄であった。 玖珠神楽や丸岡神楽は、高千穂神楽の古い時代の名残りがあるように思えた。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第24回(1998年12月17日)
丸岡の日向神楽
緒方俊輔
福井県坂井郡丸岡町は延岡市と姉妹都市である。というのも有馬公が元禄五(一六九二)年に糸魚川を経て丸岡へ移ったことに由来する。その際、高千穂足軽百人を連れて行っているらしく、その後のリストラで人員削減された人の名前の中にも甲斐姓が多く見られる。 現存する天守閣では日本最古といわれる丸岡城の鬼門にあたる北東方向に長畝(のうね)地区があり、毎年九月十四、十五日に長畝八幡神社で福井県指定無形民俗文化財「日向神楽」が行われている。 私は、高千穂神楽と比較検討してみたいと思い、今年九月、現地へ赴いた。 神楽の舞の種類には。六礼、弊神随、於貴位、後神随、策(むち)神随、弓神随、魔払い、散米、伊勢神楽、綱切、注連神楽、日の舞、大蛇退治、柴引、問、前の手力雄、後の手力雄の命、戸取、真、猿田彦命(月日取鬼神)、道祖猿田彦命、道祖神(平鬼神)、跡舞、獅子舞の二十四番がある。このうち今年は十四番が二日間にわたって三、四時間ずつ行われた。 中でも「於貴位」は高千穂神楽の「沖江」、「策神随」は高千穂神楽の「武智」と似た名前で、似た採り物を持って舞っていた。また、柴引も同じで、手力雄が前後二つに分れている構成も似ていた。 笛と鉦(かね)の調子は全く違っていたが、太鼓は締め太鼓で「トロムコトントントロムコトン」のリズムは、若干早いが同じであった。獅子の頭の形状も、浅ケ部と同じワニ形の平らなタイプであった。 「真」で天照大神自身の舞があるのは、高千穂の一般的な地区とは違うが、日之影町大人系と共通していた。 面白いのは、天照大神が登場したときの太鼓の調子が喜びの調子で、最後が強く打つところが似ていた点である。 神社で舞うので、「えりもの」や「御小屋誉め 」はないが、舞処の横には外注連(しめ)が建てられ、二本ではあったが緑の糸を使う「注連神楽」は行われた。 殿様の神楽らしく衣装はきらびやかであったが、古い歴史の中で落ち着いた感じを受けた。 衣装の家紋の中には、高千穂の甲斐家の「違い鷹(たか)」も見られた。丸岡町の電話帳では四軒だけが甲斐姓が見られ、故西川功氏の調査では、甲斐二郎左衛門重吉の子孫に当たるようであった。 丸岡町の日向神楽は、民俗芸能研究の上でも、伝播(ぱ)年代と系譜が押さえられる貴重な例であり、高千穂神楽の研究の上でも大変貴重な資料である。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第25回(1999年1月14日)
甲斐有雄翁作の神像
緒方俊輔
高千穂町教育委員会では現在「遺跡詳細分布調査」を行っている。これは、埋蔵文化財包蔵地の地図を作製するために現地を歩いて遺跡を探す調査である。平成十年度は田原地区を行っている。 先日、大字五ケ所字笈の町の調査では、武田計助さん所有の杉山から甲斐有雄翁作の山の神の石像三体が発見された。甲斐有雄翁は幕末から明治に生きた熊本県出身の石工で道標を数多く残したことで有名で、河内の郷土史家の富高則夫さんが研究されている人物でもある。何と今回発見された神像は富高さんも御存知でなかった資料であった。 三体の内の一体は、頭の部分が欠損しているが神官のスタイルの座像で、底面に「明治二十一年大山祇命奉刻肥後甲斐有雄」の銘があった。残りの二体は女神の立像で、一対は扇のようなものを持ち、もう一体は持ち物は不明だが両手を前に構えていた。共に銘はなかった。松の木が倒れた際に石祠を倒し、壁材が一部破損したために風化が進み頭や持ち物が欠損したり割れたりしたようであった。 神道的に考えれば、大山祇命と磐長姫と木花咲耶姫の姉妹の像かと思ったが、念のため、「甲斐有雄日記」の明治二十一年を見てみた。 「五ヶ所 老ノ町 佐藤松四郎 三神 奥山祇命、地ヲ守。シャクヲ持給。大山祇命、木ヲ守。斧ヲ持給。端山祇命、猟ヲ守。弓矢を持給ふ。作料、壱円五拾銭。」とあった。 ここで面白いのは山の神が三種類の呼び方で呼び分けられている点である。 椎葉神楽の嶽の枝尾地区の「宿借り」の問答の中にも山を奥山・中山・山口の三つに分類している。 恐らく石像の注文をした佐藤松四郎さんは猟師の方で、彼らの山の神への信仰は山を三つに分類して、林業や狩猟に対して恵みが多いことを祈っていた素朴な信仰の表れと考えられる。 大字河内字小河内の青石と呼ばれる阿蘇凝灰岩で作られているため、加工は簡単である反面、風化を受けやすく持ち物等が欠損してわからなくなっているが、文書によって何を持っていたのか、何という名前の神像であったのかがわかってきた。 明治二十一年と考古学的にはさほど古くはないが、民俗学的には近年まで奥日向の猟師の間で山の神への信仰が神道の命付けとは異なった独自の形であったということが、年号付きで確認できた好資料の発見であったと言える。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第26回(1999年2月21日)
墓石の歌に思い出が
緒方 俊輔
今回もまた、高千穂町教育委員会が進めている平成十年度遺跡詳細分布調査(田原地区)での新発見資料について紹介したい。 「哀しきや卯の花くぐりてふる里ハ、宇能花のちりて淋しい五月雨。洞仙」 高千穂町大字河内奥鶴の後藤博典氏の墓地の墓石には、熊本県阿蘇郡高森町野尻出身の石工で社会福祉家でもある甲斐有雄翁の歌が彫ってある。 墓の主は後藤龍之助さん八才とあり、卯の花が咲く頃の生前の思い出を歌にしたものと思われる。 その隣の河内弘之介氏宅の墓にも河内ツヨさん行年六十七才の墓に歌がある。 「時雨月の終の一日。 鳥辺野におくれる袖のしぐれ可那。」 これも死を悲しんで冥福を祈る歌である。 これらの歌を彫った人はペンネームや字体から判断して甲斐有雄翁である。そしてただ単に道標や仏像等を彫るだけでなく、歌を読んで彫ったものもあり、彼の文学者としての一面を示すものである。甲斐有翁研究の第一人者富高則夫氏の著書にもかなりの作品が紹介されているが、墓に残る歌はあまり知られていなかった。その原因は、個人の家の墓地でよそ者が、あまり立ち寄れなかったためである。 今回の調査は、甲斐有雄翁の交友関係を追うことでさらなる歌の発見への切っ掛けとなると思われる。 また、大字河内字小河内産の青石製のため一見は甲斐有雄翁の作かと思われたが、年代が明治四十四年のため明治四十二年に亡くなった甲斐有雄翁の作ではないが、石工が工藤礼太郎氏の作品として、河内伝太郎氏の墓石がある。 「増劣る家名より主乃心だに言残して片道旅。年八十二ノ直筆」と遺言が彫ってあったが、封建時代の影響が強く残る当時にしては、家名よりも主人の心をしっかり持てという進歩的な考えを持ってあった方であったことがわかる。 昨年、宮崎市蓮ヶ池横穴墓から見つかった鬼面文は大陸から伝わった宗教である道教の影響を受け、新富町百足塚古墳の形象埴輪群も当時のファッション等を語ってくれる。 墓に何かを残す行為は、古代からいろいろあるが、そこには故人への思いでや冥福を祈る気持ちが残っている。また、後に残る家族への遺言などもあり、実に様々である。 現代では、無機質な納骨堂タイプのお墓が増えているが、今回の調査で見つかった墓に残る歌の数々は、日々の生活で忙しい我々現代人に心の余裕を教えてくれているように思える。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第27回(1999年3月12日)
神楽文書が語るもの
緒方 俊輔
神楽等の民俗芸能は、口伝で伝承されるため基本的に書き物は存在しにくい。 学校教育の普及により文字を読み書きできる人が増えるにつれ、メモ程度ではあるが、神楽歌や正行(しょうぎょう)等も文字化されているようである。 「高千穂の夜神楽」の文書としては、一部が、小手川善次郎氏と本田安次氏の著作で紹介されているものの実体はまだよく知られていない。 そのような中、平成九年三月、秋元神楽保存会から教育委員会へ神楽文書の翻訳作業の依頼があった。 幸い、文化財専門調査委員長の興梠弥寿彦氏は、下野八幡大神社の宮司さんでもあり、神楽に詳しく古文書解読もされるためお願いすることとなった。 解読作業の一方で、永年の歴史から虫食い等で傷んだ箇所の修復作業も進めて行った。虫の卵を殺すためにアイロンをかけ、穴が開いたものは裏から和紙を張り直し、裏打ちした。なおこの作業に先立って、特別に防腐剤の入った特種な糊を取り寄せた。 解読原稿のワープロ入力作業と同時に文書一枚一枚の写真撮影も行った。 このような地味な作業の積み重ねの結果、高千穂町文化財調査報告書第十集「高千穂の夜神楽〜秋元神楽保存会所蔵、神楽関係古文書資料集〜」一九九八年が刊行された。 中でも重要な内容は、高千穂神楽は、幕末から明治にかけてそれまでの神仏習合から神道化が進められるのであるが、その課程がわかることである。 第二十三号文書では「しゃか」「やくし」「大日」「くわんおん」といった仏名も登場し、また、明治二十年の第七号文書では地固で「当方くるくるしやからほふ。南方くるくるしやからほ。西方くるくるしやからほふ。北方くるくるしやからほふ。忠をくるくるしやからほふ。…」の呪文があり、 同じ呪文を持つ椎葉村大河内・向山日当・追手納・小崎・嶽之枝尾・夜狩内や五ヶ瀬町古戸野などとの関係が考えられる。諸塚山の山伏の修験道の実体を探る上でも重要と思われる。 浅ヶ部の神楽師承、樋口治吉郎氏が亡くなって今年でちょうど百年にあたる。 今回の資料は、浅ヶ部はもとより、下川登、三田井北、押方嶽宮、丸小野、秋元と三田井系統の神楽でも、仏教色の強い前述の箇所を除いてはほぼそのまま通用する。 現在、高千穂町歴史民俗資料館にて実費の一冊千五百円(送料別)にて頒布している。神楽研究者にはお勧めの一冊である。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第28回(1999年4月12日)
だんごで新製品開発
緒方俊輔
ちまたでは、「だんご3兄弟」がブームである。 永山久夫著「古代食は長寿食」保育社カラーブック須八四五号一九九四年によると、縄文時代の新潟県津南町の沖の原遺跡や岩手県北上市の坊主峠遺跡でダンゴ状の縄文クッキーが出土している。ドングリの灰汁を抜いたものを卵や山芋などをつなぎにして蜂蜜等で味付けしたものらしい。 上下永之内地区集落史編さん会・高千穂農業改良普及所編「伝承ながのうち」一九八七年には十一のダンゴが紹介されている。 (1)祭団子(=五・九・十一月の祭。原料は小麦粉。)・(2)節句団子(=五月五日の節句で柏の葉に包み込んで蒸したもの。原料は小麦粉や米の粉。)・(3)田植団子(=田植の時)・(4)盆団子(=旧暦七月七日、八月十三日、十五日。盂蘭盆)・(5)亥の子団子(=旧暦の十月、最初の亥の日にその年にとれた新米で搗いたもの。)・(6)しの団子(=秋の穀物の取り入れの時。)・(7)焼団子(=とうきび粉で平釜で焼いて食べる。)・(8)やわ団子(=よもぎをゆがいて、とうきび粉をこねて丸め、その中によもぎをあんにしてゆがき、臼で搗いて最後にあんこを入れてまるめてそのまま食べる。)・(9)からいも団子(=からいもを薄く切って乾燥し、粉に挽いたもので釜焼きにしたり、蒸して食べていた。)・(10)きび団子(=小麦粉やもち米を粉に混ぜ持ちや団子にして食べた。)・(11)ぶち団子(=米の粉の白いのと、よもぎを入れた緑色の組みあわせて団子にする。) 椎葉クニ子語り・佐々木章文「おばあさんの山里日記」(葦書房=一九九八年)では、(12)割粉団子(=旧暦七月十六日に精霊に供える。小麦を殻のまま水に浸けて製粉して作った団子。)・(13)団子饅頭(=旧暦六月十五日の祇園祭に鍬の神に供える。)が紹介されている。 3つ並んで串にささっていたかは不明であるが、作る時期や調理方法や原料などによって様々な名前で呼ばれていたことがわかる。 話変わって「だご汁」であるが、これも(1)つん切りだご汁(幅広のきしめんの麺をつん切ったもの。)・(2)_投げこみだご汁(=粉をねったものを団子状にちぎって投げ込んだもの。すいとん。)などの種類があり、こちらも奥が深い。 お土産物屋での高千穂ブランドが少ない現在、「ダンゴ3兄弟」ブームに乗って新製品開発がなされれば、フォレストピア(森林理想郷)圏域から明るい話題が出来ると思う。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第29回(1999年5月10日)
蒲江町丸市尾神楽
緒方俊輔
今年の四月四日、大分県南海部郡蒲江町で丸市尾神楽があると聞き、見学に行った。 リアス式海岸沿いの国道三八八号の丸市尾バス停横の広場に舞台が作られ、高千穂で言う外注連(そとじめ)にあたる御棚様が組まれ、八方注連や緑の糸も張られていた。午前十時、冨尾神社から神輿や獅子舞や子供長刀隊などが舞台まで練り歩き、神事の後、神楽 が奉納された。 今年は、地固・壱神楽・地割・禰宜・繰下・鬼神・綱切・山森・山ノ神・柴引・祝詞・戸取が舞われた。 太鼓は鋲留で、えりものにあたる紙飾りは無く、綱切があったことは大きく異なっていた。特に漁師の町らしく、鯛やヒラメやイカの大物が奉納されていたのは圧巻だった。 笛の拍子も高千穂とは異なっており、台詞や歌もあまり登場していなかった。 岩戸開きの柴引は、椎葉村に多く見られるような鬼との力比べタイプで、伊勢と鈿女にあたる祝詞は、女面を付け衣装がきらびやかで、戸取では「山飾り」と呼ばれる戸が神社の観音開きのタイプであった。そして、天照大神が恵比寿の面を付けていた所もいかにも漁村らしかった。 地固では猿田彦が従者をつれて登場したり、繰下では緑の糸が2本のみで、紅白の笠を被った舞手が舞っていた。綱切が願掛け神楽と呼ばれており、縁結び・地舞・本番の三部構成を取っていた。 今年は時間の都合で奉納されなかった神楽では花舞・荒神・おきえがあるとのことであった。また、秋の十一月二十日にも冨尾神社で奉納されるとのことであった。 今回は、普段は省略することが多い禰宜の舞を見ることが出来たのはラッキーであった。椎葉の稲荷に似た体をクネクネさせる感じの舞いで難しそうであった。師匠にお聞きすると難しい舞であるが、若い舞手がビデオで練習して上手に舞っていたそうである。 北浦町の三川内から伝わったと言われており、跳びはねる動きの多い豊後神楽とは違っていた。大分県の研究者は丸市尾を日向系と分類しており、宮崎県の研究者はこれまで北浦町三川内の神楽を豊後系と呼んでいた。これらは、おそらく地理的位置関係から便宜的に分類されたものと思われる。 県立図書館の前田博仁氏が「三川内神楽」『宮崎民俗第五一号』(=一九九七年)でも述べられているようにまずは個々の神楽の詳細な研究が望まれ、その後系譜等を検討すべきだと思った。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第30回(1999年5月24日)
製塩土器が語る歴史
緒方俊輔
今年三月、宮ノ前第2遺跡の発掘調査報告書を刊行した。宮ノ前第2遺跡は平成五〜六年度に菊宮神社の前の町道猿渡線道路拡張工事に先立って発掘調査を行った。中でも、奈良時代の製塩土器の破片の出土は、県北初出土であり、これにつづいて、県文化課が高千穂高校第2グラウンド建設に先立って調査した神殿遺跡からも発見された。製塩土器は、内側に布の痕跡があり布痕土器とも呼ばれている。海水を煮て塩を作った土器と考えられており、宮崎県では厚手のものが日南市狐塚古墳の石室を再利用した平安時代の遺構が産地の一つと判明した。現在、県内六十四の遺跡で見つかっているが、日向国府のあった西都市や日向十六駅の救麻駅のあったと推定される宮崎市熊野等当時の官道及び駅の推定地を中心に分布している。 高千穂町と須木村だけが官道からは外れた場所にあたり、山岳地帯を横断するルートとも、あるいは神社等の祭りで使った等とも推測される。 高千穂には、塩の付く地名が多く、御塩井・塩市・塩井・塩井川・塩井平・夕塩・古夕塩・塩井の宇曽など集中する。田尻恒氏の「高千穂夜話」一九八九年によると岩戸の岩戸橋付近では岩塩がとれたと紹介されている。これは、江戸時代の探検家、松浦武四郎の「西海雑志」にも「御塩の初」という石碑が描かれている。また、冨高則夫「甲斐有雄翁日記歌枕」一九九六年によると、明治四十一年二月二十日の甲斐有雄翁の日記にも「神塩笹戸橋の元に。世に頼ミあるらじ物と思ふにぞ神の恵ミの塩にや有けん。海ならで此山奥の岩間にハわくや潮の恵ミなるらん。思ひきや此の山おくにかしこくも皇七神の塩のわくとハ。思ひきや海とはなれし此山にすめら神の塩の有とハ。」と歌を読んでいる。 この他、大字河内の寧静ループ橋の稲荷神社付近にも岩塩が湧く「塩噴き岩」があったそうである。 山奥の町高千穂で塩と言うと、海から遠いため遠い存在ではあるが、九州でも最古の地層がある五ケ瀬町鞍岡の祇園山等サンゴや貝の化石の採集地も近く、日本で採れる鉱物の約三分の一の種類が採れる土呂久鉱山等も近くにあるため、岩塩の採れる地点も他の地域よりも多いようである。 今回出土の製塩土器は、海からの塩の流通を示すものであり、今後、化学分析等も進めば流通ルート等もわかるかもしれない。 観光資源の開発は決して甘いものではないが、身近な所を見直すことが大切だと思う。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第31回(1999年6月3日)
2つの高千穂論争
緒方俊輔
「高千穂牧場へ行きたいのですが、道を教えてください。」という人が年に何人かはいらっしゃる。「遠いですよ。」と言って教えてあげると、「あら本当に遠いわね。」の答えが返って来る。どうやら、高千穂が宮崎県内に二ケ所にあることを御存知ない観光客の方であった。 「芸術新潮の一九九九年一月号」には梅原猛氏の「天皇家のふるさと日向をゆく」という記事が掲載されている。 本居宣長以来、論争されてきた高千穂論争であったが、梅原猛氏の独自の切り口から、1か0かではなく時代差をふまえた両方の説を紹介されている。 中央で書かれた「古事記」、「日本書紀」の他に地域独自の伝説にまで踏み込んで書かれてありながら、とてもわかりやすい。 証明は困難ながら、仮説の一つとしては一貫した筋のある話であり、是非とも多くの方に読んでいただきたい内容である。 森浩一編著「古代探究〜森浩一七十の疑問〜」中央公論社、一九九八年の中で佐古和枝氏は「クマソの『ソ』は曾於のソか阿蘇のソか」の中で日高正晴氏の高千穂が臼杵から霧島へ移る説(日高正晴「古代日向の国」NHKブックス、一九九三年)を紹介され、それぞれに弥生時代の免田式土器の分布圏と古墳時代の地下式墳墓の分布圏を対応させ、クマソの『ソ』は曾於のソになったのは、本来のソの中心地だったからではなく、ヤマト勢力の浸透とともに、抵抗する在地勢力が、曾於地方や薩摩半島などの不毛の地に追いやられていった結果ではと推測されている。 古代日本の国家の成立の過程の中でも筑紫や出雲とともに神話のウエイトが高い日向であるからこそ、県や市町村をあげて調査研究する考古学や古代史等の専門スタッフを増やして取り組んで行ってもらいたい。 梅原猛氏の足跡をたどる観光コースなども地元観光バス会社等が積極的に取り入れていただくと地域振興になると思う。 梅原猛氏は将来、神話を題材とした大河ドラマを書かれる話があるそうであるが、是非とも完成していただきたい。 考古学研究者としても、日向の地域性や他地域との交流関係、さらなる精度の高い土器編年の確立など頑張っていかねばと思う今日この頃である。 我々が仕事をしやすい環境のためは世論に呼び掛け、古代史ファンを一人でも増やすことにかかっていると思う。 皆さん、ふるさとの歴史を勉強してみませんか。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第32回(1999年7月2日)
落書きが語る歴史
緒方俊輔
落書きで思いだすのは大分県囲ヶ岳洞窟でオオツノシカえを描いたという旧石器時代の絵画が発見されたという報道の直後、後藤逸郎さんという人が少年時代に書いた落書きであったと判明した事件である。調査担当の方には折角の発見が水の泡と消え、お気の毒であったが、正直に名乗り出ていただいたため、歴史が間違わずにすんだ。 平成十年度の田原地区での遺跡詳細分布調査でもいくつか落書きに出会ったので紹介したい。 大字田原の熊野神社上宮は、熊野神社からさらに川をさかのぼった山の中腹にある。東大寺の二月堂のような崖面に建てられた建物である。かつては、学校の遠足等に利用されたこともあったそうであるが、途中の道が悪いため今では訪れる人はほとんどいない。 老朽化のため、社殿に入るのはちょっと勇気が必要であるが、内部に落書きが多数残っており、確認できるものの中では、「嘉永元歳戌四月二十九日、日向高千穂三田井ノ住人、百助・火弥・為弥・侖生」とあるものが最も古く、他にも鬼や侍の顔と思われる絵画が描かれていた。 大字田原字今狩平の尾中野(おちゅうの)天神堂の木の祠の側面には「大正弐年弐月弐拾八日造、宮崎県西臼杵郡田原村大字田原矢津田熊雄Yafuta kumao tukuru」 とある。fはtの誤りと考えると「矢津田熊雄作る」と書かれている。ヨセフ・トルコやウエストン等のサインが出て来なければ、恐らく高千穂町でも古いアルファベッド文字になるかもしれない。大正二年といえば十月に福岡在住の牧師のアーサー・リー氏が高千穂に来町する年である。矢津田日記によると、明治の後半からウエストン氏ブランドラン氏等が避暑のために五ケ所に来ている。おそらく大工の矢津田熊雄氏も覚えたてのローマ字を書いてみたかったのであろう。 この他、遺跡詳細分布調査の際に見学させていただいた茶堂の中に、どことは申し上げられないが、他人の中傷の子供の落書きがあった。中には不謹慎にも仏像本体に落書きされていたものもあった。 今回の原稿も落書きがあってこそまとめてみたのであるが、他人の中傷は気持ちの良いものではない。中には歴史的・文学的・芸術的価値のあるものもあったが、だからといって私は落書きを認めてはいない。 文化財はみんなのものなのでそれらに落書きをすることは慎んで、どうしても何か残す場合は出版物や作品などの別の形で残すべきと思う。(高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第33回(1999年7月31日)
ある石工の足跡の謎
緒方 俊輔
日之影町との境の秋元水ヶ崎鶴ノ平の古眼鏡橋は銘は無いが、肥後の石工の作とされ、熊本県八代郡東陽村の石橋博物館「石匠館」に写真が展示されている。 山口祐造著「石橋は生きている」(葦書房、一九九六年)には、県内最古の石橋は、日之影町深角橋で天保十一年(一八四四)に南関の石工、菊右エ門の作とある。 東陽村(旧・種山村)の石工は、種山石工と呼ばれている。初代、藤原林七は長崎奉行所に勤務時代、円周率(π)をオランダ人から習ったことが、発覚し、追手を向けられ、武士を捨て、種山村へ逃げた。農業の傍ら石橋を作っていたがアーチで失敗。寺の普請現場で垂木が反る様を見て、逆にすればアーチになることを発見、曲尺の裏目で計算し、アーチ技術を確立した。続く三五郎は腕を上げ肥後は元より島津藩から招かれ、天保十一年(一八四〇)から嘉永二年(一八四九)秋に甲突川の五大石橋を架けた。洪水の際、川に飛び込み基礎の安全を確認した事から岩永姓を許された。嘉永元年(一八四八)、家老調所広郷の死後、架橋後に永送り(暗殺)されると耳にし、密かに種山村に帰郷。嘉永四年(一八五二)十月五日永眠した。 面白いのは、前田正彦著「眼鏡橋」(岩波ブックセンター、一九九二年)に、「人目を避け日向路を五ケ瀬町に出て、険しい九州山地を越えて阿蘇郡蘇陽町に辿りつき、無事種山に帰ったと言われている。」とあることである。 ここで私がひらめいたのは、高千穂町岩戸の轟橋のことであった。上下永之内集落史編さん会・高千穂農業改良普及所「伝承ながのうち」一九八七年では、「轟橋は、嘉永年間に、三五郎の弟子の三兄弟が架け、長兄はその功から、徳永の姓をもらい五ヶ村にいついた(徳永鶴市氏)」とある。弟子の三兄弟とは甥の卯助・宇一・丈八(橋本勘五郎)であろうが、長兄卯助は嘉永五年に南種山村早瀬に別居し酒造業を始め、晩年は八代郡和鹿島村(今の竜北村)に移り農業に専念し七十二才で没するので、徳永との関係は矛盾する。実際は、三兄弟の弟子が徳永姓を名乗ったようで高千穂町歴史民俗資料館蔵の岩戸文書一五八号文書(嘉永二年)に「卯市」と「徳永金作」の名前が残っていた。「卯市」は次男「宇一」と長男「卯助」と文字が混乱しているが、次男「宇一」と思われる。 古眼鏡橋の方は文書がないのでわからないままである。今後、古文書や銘文の発見があれば、石工の足跡の謎も判明するだろう。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第34回(1999年8月10日)
名前のルーツ探し
緒方 俊輔
高千穂町教育委員会では平成十一年度から古文書講座を開講した。講師は、碓井哲也氏と興梠弥寿彦氏である。町制八十周年記念誌編集の際に明らかになった新資料の紹介もあり、興味深い内容である。 奥鶴の河内弘之介氏宅の古文書の中から、明治四年太政官布告に伴うと思われる平民の改名申請書が発見された。河内伝兵衛から河内伝太郎へ改名したいと宮水代官所の後の郡役所高千穂出張所所長への申請書であった。 江戸時代の「右衛門・左衛門・丞・大夫・兵衛・輔・介・亮」等は古くさく、明治新政府にはふさわしくないので改めるようにとの太政官布告の内容を受けたものであった。 さて、大変個人的な話で申し訳ないが、私の名前「緒方俊輔」も「輔」が使われ、古い名前である。小学生時代は試験の時に名前を書くだけでかなりの時間をかけてしまい、苦労したことを覚えている。日本最初の総理大臣伊藤博文首相の御幼少の時の名前が「俊輔」であったそうで、私が生まれた頃に発行された千円札の顔の人であった。 高千穂町に来てびっくりしたのは、日向市教育委員会の文化財担当者に「緒方博文」さんがいらしゃったことである。とても他人とは思えない、妙な親しみを感じたのはお互い様であった。 しかし、最近インターネットで私の名前を検索すると、驚くべきことに、全く同姓同名の「緒方俊輔」さんがいることがわかった。コンピュータのLINUX(ライナックス)というオペレーティングシステムの記事を書かれているプログラマーの方であった。 宮崎日日新聞の地域発信の読者から、「読んでいますよ。」と声をかけられることが多い。そして必ずと言って良いほど「文章からもっと年配の人かと思っていました。」と続く。確かに私は童顔ですが。(笑) 子供の頃は苦労した名前ではあるが、長年の付き合いから慣れてしまったのか気に入っている今日この頃で、やがて二十一世紀を迎える現在のところ、改名する気はない。 古文書講座も「高千穂古今治乱記」を主な教材にしているため、三田井氏・大神氏などの苗字の話などを取り入れている。延岡市や日之影町など町外からの受講者も多く好評である。古文書ファンの皆さん、九月四日まで土曜の午後一〜三時に高千穂町歴史民俗資料館までお越しください。自分の名前のルーツを探って見るのも面白いですよ。 (高千穂町歴史民俗資料館学芸員)
第35回(1999年8月28日)
夜神楽師匠の系譜
緒方俊輔
「高千穂の夜神楽」は、江戸時代後期にそれまで社家神楽といって神職の人だけが舞う神楽であったものが、願祝子(がんぼり)と呼ばれる一般の人が奉仕者として舞うようになった。今日でも社家神楽を続けている西都市の銀鏡神楽とは伝承形態が異なっている。 高千穂神社に近い三田井地区では浅ヶ部の堂園の樋口治吉郎と栗毛(猿渡)の花田由蔵(芳造)の二人の師匠が神職以外の民間人としては最初の願祝子であったそうである。 現在の浅ヶ部神楽保存会代表で梅木の熊谷誠師匠は、初代の堂園の樋口治吉郎師匠から二代の猿伏の戸高武四郎師匠、三代の山川の田崎生馬師匠に続く四代目の師匠である。 高千穂神社で行っていた社家神楽の時代から、現在にかけて、それぞれの師匠の個性も入り、地区によっても違いが見られるようになってきている。 先日、インターネットで神楽を見たが、練習したいのでビデオを送って欲しいという高千穂出身の方からEメールが届いた。しかし、三日三夜とも七日七夜とも言われる神楽を現在は一泊二日で行っているため、一部を省略したりしているのも現状であり、ノーカットのビデオは存在しないのである。したがって、送りたいのは山々であるが、「途中抜いている可能性がある」という前提でしか送れないのであった。しかも、舞手の年齢に応じて舞いを割り当てているため、入門編の舞いは新人が舞う例が多く、ベテランはベテラン用の舞いとなるため、ベテランの舞う入門編の舞いの映像が欲しいのであるが、存在しないことが明らかになった。 浅ヶ部の堂園の樋口治吉郎師匠の墓は、現在は新しい墓に改葬されていたが、古い墓石も残っている。「仙峯自徳信士 樋口亀四郎父、樋口治吉郎藤原吉次、明治三十四年旧六月二十五日、八十八才」とあり、明治三十四年は西暦一八九九年のため、今年でちょうど百年にあたる。 神楽の研究には、古文書の他にも神官さんや師匠さんがどのような人であったかを探る必要が不可欠であり、今生きている詳しい人に聞かなければ、わからない事柄がたくさんある。 技術の進歩によって、ビデオをパソコンで動画を残すことは年々簡単になってきたが、本来の用語や意味するもの等も記録保存する必要がある。 樋口治吉郎師匠没後百年にあたり、せめて「神降し」「鎮守」「杉登り」の「式三番」だけでもノーカットの映像を記録したいものである。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第36回(1999年9月23日)
急がれる民俗調査
緒方俊輔
福岡市在住の神楽ファン遠藤公義氏は、毎年四月に自宅で「夜神楽ナイト」と題したビデオ映写会を行っている。今年も招待状とともに「夜神楽ナイトについての独り言」と題したA4用紙七枚に及ぶ随筆を書かれている。その中で、高千穂町三田井在住の興梠金長さんにインタビューをされ、神楽の話を取材された話がある。 「御幣立つ諸葉の山を我行けば、太子もそこも御幣とどまる」という神楽歌は、金長さんの説では、「御幣立つ諸葉の山を我行けば、太子も祖公も御幣とどまる」であるとのことであった。本当かどうかはわからないが、金長さん曰く「違うのなら違うと証明できる人を連れて来てくれ。」と言われると、誰も連れて行けないのであった。 興梠金長さんの記憶力は事細かな事柄までにも及んでおり、それらの情報を羅列されるとそうなのかなと思う人も多いと思う。かつて「高千穂・阿蘇」の学術調査の際、大学の先生が、「知らないから教えて欲しい」と聞いてきた話をされ、「うそを言うかもしらないよ」と言ったら、「あなたの言うことは本当のことですよ」と言われたというエピソードを語っていただいた。 私は、今年五月、椎葉村で西南学院大学の山中耕作教授が「椎葉・五家荘の平家谷伝説」と題した講演をされたが、その中で伝説・物語の約束として「とんとある話。あったかなかったかは知らねども、昔の事なれば、なかったこともあったにして聞かねばならぬ。よいか。」というのがあるという話があったのを思い出した。 日高正晴氏は、「古代日向の国」NHKブックス一九九三年の中で、西諸県郡高原町の祓川神楽の神楽歌の「霧島の峯より奥の霧はれて、現れ出ずる其の峯の守」とある「其の峯」が「襲の峯」と思われると推測されている。 これらの神楽歌は、かつての高千穂論争を彷彿してしまうが、どちらが本当というレベルでなく、いつどこでだれがどのようにしてどうしたという5W1Hとそれらの情報の客観的な信頼度程度にとらえるのが大切なことだと思う。 民俗芸能の研究には、まずは見ること(=記録すること)が必要であり、次に古文書の研究と伝承者への聞き取りが必要である。 生き証人が御健在な内に少しでも多くの事柄を聞き取りして記録に残す必要がある。 私達自身も、家庭や地域でも会話を増やし、生き証人記憶の中の宝物を後世に伝える義務があると思う。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第37回(1999年10月20日)
ネットの文化財情報
緒方俊輔
インターネット時代である。ためしに、「B29墜落」と打って、検索して見ると、わずか数秒で東京の東村山市と和歌山の龍神村の大熊小学校のホームページが表示された。私は、自分でも結構あちこちの例を調べたつもりだったが、これまで知らなかった例であったので、非常に感激し、便利さを実感した。 このこととは、反対にインターネットで出たからといってもそのまま信じては混乱してしまう例もあったので紹介したい。 大分県の神楽を検索すると大分百科事典のうち染矢多喜男氏の書かれた神楽の説明が表示される。蒲江町蒲江浦では「寛政元(一七八九)年には丸市尾の神主家と不和のため、日向国梅木村から岩戸神楽を招いている。」とあった。私は日向国梅木村はもしかすると高千穂町三田井浅ヶ部の梅木のことかと思った。梅木といえば、現在の熊谷誠師匠の集落であったので、熊谷師匠に尋ねてみたが、わからなかった。 そういえば丸市尾と同日に蒲江浦でも神楽をやっていたけれども、また調査しないといけないかなと思った。早速、蒲江町教育委員会に問いあわせてみた。数日して、蒲江浦の王子神社の疋田相模正が文化三(一八〇六)年から書いた「当浦日記」の訳のプリントを送っていただいた。それによると「日向国三河内梅木村」と書かれていた。三河内は、現在の北浦町なので高千穂町ではなかった。どうも大分県百科事典編集の際、三河内が省略されてしまったため、勘違いを招いたのであった。 キーワードを入力するとものの数秒で一覧表が見ることができる便利な時代になった。入力された内容しか表示はされないし、出典が明かでないと信憑性もあやしいので、しっかり調査して情報発信していく必要がある。 埋蔵文化財業界でも川南町教育委員会社会教育課文化財係の島岡武さんが「宮崎もぐら通信」というホームページを作ってある。また、宮崎県埋蔵文化財センターの石川悦郎さんは「東九州弥生文化研究所」というホームページを開設された。いずれも、遺跡説明会や講演会や研究会の情報が満載で研究者には助かる内容である。とくに島岡さんのページでは、天気予報の最新情報まで見ることができる楽しいページである。 高千穂町でもホームページはあるが、なかなか管理も大変なようで、私も個人的に始めてみたいと思いつつも実現できないでいる。 私もちょっと勉強してはじめてみようかなと思った今日この頃である。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第38回(1999年11月10日)
奥鶴遺跡の発掘
緒方俊輔
高千穂町大字河内の奥鶴遺跡で河内守人さんが基盤整備してビニールハウスを建設したいと連絡があり、その場所がちょうど昭和六十二年に安国寺式の複合口縁壷を出土した場所でもあったため、今年五月から発掘調査を行った。長雨の影響で調査は延びたが、八月十四日に行った遺跡説明会では、お盆で帰省されていた家族連れ等多数の見学者が訪れた。 遺跡は、出土した土師器(はじき)と呼ばれる薄手の素焼土器の型式から考えて、今からおよそ千七百年〜千六百五十年前頃の古墳時代前期の初頭の頃で、竪穴住居が七軒検出された。 うち一軒は火災住居で炭化した柱や屋根を葺いた草の灰等がちょうど屋根が焼け落ちた状態で放射状に残っていた。 これまでに宮崎県内での火災住居は古くは縄文時代中期から新しくは江戸時代の延岡城まで三十例ほどあり、古墳時代前期に限れば九例程知られているが、今回の例はそれらの中でも柱材の残存状態は良い方であった。 ここで問題なのは、炭層の下からは土器が出ていないのである。無事、家財道具の持ち出しに成功したのか、それとも家を廃棄する際に人為的に火をつけたのか、鎮火後、置き場所がわかっていた家財道具を回収したのか、この状況のままでは様々な仮説を立てることが可能であった。 火のまわりは西側が良く燃え、壁面も焼けていた。残念ながら火災原因までは断定できなかったが、今後他の遺跡で火災住居が見つかった際、家財道具が残った状態とかあれば、当時の家族が何人くらいか、とか一軒の土器の量がどれくらいかとか、わかると思う。 調査は、基盤整備で削られる部分を中心に行ったため、火災住居の部分は幸い埋め立て部分にあたったため、地主さんの御理解もあって、柱材は残した状態で埋め戻すことになった。 植物の専門家に樹木の種類の鑑定を依頼する予定であり、結果がわかればこのあたりにどのような植物が生えていたのかとか、どのような気候であったのかとかもわかるのである。 火の用心のポスターや、神話の本とか作る際、木花開耶姫の出産の場面とかに古代住居の火災跡として紹介したりもできると思われる。 火災原因までは、断定できなかったが、豊後系の工字突帯甕や安国寺式土器、肥後系の免田式土器、畿内系の布留式土器など地域間の交流をうかがえる資料も出土した。当時、高千穂でどのようなドラマがあったのか、ロマンが広がる。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第39回(1999年12月16日)
クマの足跡騒動
緒方俊輔
平成十一年十一月五日の朝、上野田井元の佐藤恵子さんから「正体不明大きな動物の足跡らしいいものがあるので見て欲しい」と上野地区猟友会長で玄武公民館長の山口淳一氏に連絡があった。ちょうど私は、平成十二年度遺跡詳細分布調査のため山口氏と調査を行っていたため、早速現場に行ってみた。 背後に親父山をひかえた棚田の中ほどに佐藤家の墓地があった。前日に新しく芝生を張ったばかりで、朝来てみると鹿や猪といった獣の足跡に混ざって正体不明な大きな動物の足跡があった。長さ十三センチ×幅十センチを計り、凹み具合から考えてもかなり体重がある動物と思われた。ただ不思議なことは、二個しか残っていないことで、畦道の堅い所を通って足跡を残し、さらに畦道を通って山に帰って行ったようなのである。 早速、写真撮影を行い、高千穂警察署鑑識係に聞いて、石膏足跡の型取りを行った。早速、県北の自然を語る会々長の工藤寛氏や阿蘇クマ牧場の中川貴晴主任に連絡を取ってみたが、足跡だけではわからないという回答であった。 インターネットでクマを検索すると、広島県の日本ツキノワグマ研究所の米田一彦氏や岐阜大学などがあったた。そこで写真を送ったところ、米田氏からクマに間違いないとのコメントをいただいた。四人の専門家のうちの一人が、クマと断定されたことは大事件であった。というのも、環境庁は十年前に九州にクマはいないと発表していたからであった。その直後の数日間はマスコミ各社の取材攻勢で、一日中電話の応対で忙しかった。 祖母・傾山系には、クマ塚と呼ばれるクマの供養墓が多く残っている。高千穂町内だけでも五箇所ほど確認されている。七年ほど前にも雪の上に残った足跡がクマではないかと騒がれたことがあったが、付近の毛から犬の足跡と判明したそうである。 現代はDNA分析によって毛やフンから分析ができるそうなので、それらの証拠が出てくれば確認ができるとのことであった。 クマは冬眠するため、秋に食料を求めて十数キロも活動するそうである。そして冬眠中に子供を産み、春に穴から起きて来る。クマは本来、憶病な動物であるが、恐いと言われるのには人間がワナを仕掛けて怪我させたり、子供にいたずらして怒らせるためである。 彼らの生態をもっと良く知って、宇宙船地球号の同乗者として共存・共栄を静かに見守って行きたいものである。(高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第40回(2000年1月21日)
「烏八臼」へのロマン
緒方俊輔
「烏」「八」「臼」の三文字を合わせた一文字を戒名の頭文字に持つ墓石が見られる。辞書に登場しない文字のため、古くから注目され、研究されてきた。 全国的には、久保常晴氏の「烏八臼の研究」『仏教考古学研究』一九六七年にまとめられ、宮崎県では北郷泰道氏の「烏八臼〜使用下限を示す新資料について〜」『宮崎考古学第八号』一九八二年に詳しい。県内最古の「烏八臼」は、延岡市岡富町川原崎墓地の「慶長十□乙巳」(=一六〇五年)で、最新のものは清武町木原の嘉永四年(=一八五一年)である。 「烏八臼」の意味については、諸説あるが、久保氏によると「随求陀羅尼小呪に見え、滅罪成仏の功徳を表し、吉祥成就、究意成就を表す」とのことである。 「烏八臼」で有名なものとしては、熊本県天草郡苓北町富岡の千人塚があることからキリシタン関係の説を唱える人も多い。 高千穂町教育委員会は、平成十二年度に上野地区の遺跡詳細分布調査を実施中であるが、大字上野字上西平、通称・滝下の西村直氏宅の裏から「烏八臼」の板碑が発見された。円紋の下に「烏八臼」があり、続いて「洞月妙供禅定尼」とあるため、禅宗の女性の墓と考えられる。ちなみに、延宝二(=一六七四)年の佛名帳によると「たき下、養福庵」とあり、庵規模の寺があったことがわかる。 さらに「三甲午天十一月日」、「老子敬白」とあるが元号が欠落しているため年代が不明である。三年で干支が甲午の組合せから、天文三(=一五三四)年、文禄三(=一五九四)年、承応三(=一六五四)年、安永三(=一七七四)年の四つの説が考えられる。養福庵の裏山には吉村惣右衛門の居城の玄武城があり、玄武城は大友宗麟によって天正六(=一五七八)年に落城した。玄武城と関係は不明であるが、玄武城と関連があれば、県内でも古い可能性がある。付近の墓石の形態から板碑タイプは古く、角柱タイプが江戸中期以降に増加していることから、古い可能性が高い。 タイムリーなことに西臼杵支庁土木課の砂防ダム建設事業が隣接地であり、この墓石の移転の必要が出てきたため、宮崎県教育委員会文化課の長津宗重氏による試掘調査が行われた。墓穴や遺物が残っていれば年代決定の根拠になるのではと期待が高まったが、遺構はなかった。 このことから以前にも移築された可能性があり、将来周辺を発掘してみる機会があれば墓穴も残っているかもしれない。いにしへのロマンが広がる。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第41回(2000年3月12日)
また発見「烏八臼」
緒方俊輔
平成十二年一月二十一日付の「地域発信」に高千穂町大字上野字上西平の養福禅庵跡で発見の「烏八臼」の文字がある墓石を紹介した。その後の調査ですぐ近所の龍泉寺の境内の天明八(=一七八八)年の奉待庚申塔にも「烏八臼」があることがわかった。 「烏八臼」の文字は、墓石にはよく見られるが、庚申塔には例が無い。それだけにこの文字の意味を考える上で重要となってくる。 庚申塔は道教の教えに基づくもので、人間の体の中の三尸(さんし)の虫が庚申の日の夜に天帝にその人の罪過を告げ口するために生命が縮められるので、庚申の夜は眠らないで庚申待ちの講を結び、供養塔を建てたことにはじまる。 ひとくちに庚申塔と言っても、青面金剛という髪の毛を逆立て、天の邪鬼を踏んで、右手に剣、左手に髪の長い女性の髪を持って背中の手には武器を持っている。そして見猿・言わ猿・聞か猿の三匹や日月がデザインされているタイプをはじめ、「奉待庚申…」という文字タイプ、「猿田彦大神」という文字タイプなどバラエティに富んでいる。 興梠弥寿彦編「高千穂町の石造物」(高千穂文化保存会=一九九〇年)によると、高千穂町内最古の庚申塔は三田井浅ケ部の猿伏の寛永四(=一六二七)年が古いとあった。しかしながら、二つの「烏八臼」の資料の中間付近でこれより古い慶長年間(=一五九五〜一六一五)の「奉待庚申」タイプが発見された。 玄武城の麓の田井本地区では屋号に「なこ」を中心に「御門口」「垣内」「屋敷」「西の園」「北の園」がある。しかも面白いことに「北の園」の南側と「西の園」の東側に「なこ」は存在している。吉村惣右衛門なのかその後人かは定かで無いが、かなりの有力者の邸宅があって、屋号だけから考えてもその範囲を推定可能である。将来発掘調査など行われればそれらを裏付ける証拠が出てくるかもしれない。 高千穂町内においてもかなり高い文化水準の地域であったと考えられ、龍泉寺をはじめとする諸寺院の僧侶の活躍を考えることができると思う。ちなみに親父山の中腹の樒(しきみ)原には東福寺という寺院があったと伝えられており、龍泉寺にある宮崎県指定有形文化財の地蔵菩薩は東福寺から運んできたという伝承が残っている。 いずれにせよ「烏八臼」の意味を知っていた人が呪術性を高める意味で使ったものではないだろうか。 いつの時代でも健康と長寿を願う気持ちは変わらないようである。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第42回(2000年5月10日)
口頭伝承ゆえの謎
緒方俊輔
今年三月十一〜十二日、東京の国立劇場の小劇場で「高千穂の夜神楽」の浅ケ部地区神楽保存会が公演を行った。十社大明神こと高千穂神社のお膝元で、今でも旧暦十一月十一日という祭日を頑なに守っている最も伝統やしきたりが残っている地区であるため、御指名がかかったのである。 また、小手川善次郎氏をはじめ後藤俊彦宮司、山口保明県立看護大学教授、柳宏吉氏等の研究も進んでいたため、神楽歌や唱教などの内容も比較的わかっていた地区でもあった。 ところで、文化の殿堂、国立劇場での神楽公演ということで解説書を作ることとなり、小生にも執筆の依頼があった。まあ先学の研究をまとめればいいかなと安易に考えていたら、思わぬ壁にぶちあたった。 「嬉しさに我はここにて舞遊ぶ妻戸も開けて御簾も下ろさず。」とばかり思っていた神楽歌は「妻戸も開けそ」と歌われていたのである。この歌は、秋元などのように戸立て神楽の地区では「妻戸も開けず」と歌う地区もあるが、浅ケ部は戸を開け放っているため意味の上では開いた状態でなければ実際にあわないのである。ちなみに古語辞典では「そ」は否定の意味があるので「開けず」と同じ意味になってしまうが、浅ケ部地区の熊谷誠師承によると昔からそう伝えてきたということであった。 また、雲下の「東方天の神の数は…」の部分は五万五千五百五十五体王から増えていって九万九千九百九十九体王に至ると考えていたが、実際は逆で九万九千九百九十九から五万五千五百五十五へ減っていたのである。神を送る神楽であるので、神が天に帰るにつれて天の神が増えるのか、はたまた実際に天は見えないので見ることができる御神屋(みこうや)の神庭(こうにわ)の神の数が減って行くのかよくわからないが師承の言葉の通りというのが答えである。 この他、戸取で「ああら来たり大神殿、何とていでたせ給わらんや。いでさせ給わらんものなれば我八百万神の力を持って…」の八百万神は「やおよろずのかみ」の読みと考えた方がよいのであるが、実際は「はっぴゃくよじん」と言うほしゃどんが多いのも事実である。 長い歴史の中で、口から口へと伝わったため、理屈で解釈しようとすると困難な部分もあるが、それだけに非常に奥が深い研究対象である。 東京の国立劇場での公演は大好評であった。これを機会に高千穂神楽のファンがもっと増えることを願っている。(高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第43回(2000年5月26日)
ガマダス島原に学ぶ
緒方俊輔
平成十年度の遺跡詳細分布調査で五ヶ所の菅野尾の茶堂を調査した際、「拾無益并御詠歌」と書かれた古文書の冊子があり、『肥前大津波騒動』の記載があった。まだ記憶に新しい平成二(一九九〇)年十一月十七日の雲仙普賢岳大噴火の一九八年前の寛政四(一七九二)年にも大噴火を起し肥前のみならず肥後にまで大津波による死傷者を出したのである。古文書では宇土郡美角枝村・大田村・大田尾村等二十一ヶ村の被害状況が村毎に死傷数として詳しく記載されており、合計で死者壱万五千拾弐人、けが人弐千七百九拾弐人と書かれていた。また、渡辺和三次という人が書いたものであった。内容から肥後の役人が書いたものを仏教の説話風にアレンジされたようで、奇跡的に被害がなかったところや遺体回収ができなかった村では「南無阿弥陀仏」と念仏が書かれていた。また、数もかなり細かく書かれており、この手の他の資料との比較をしてみたい衝動にかられた。 私は、今年の八月二十七日に島原で「ガマダス花火大会」という五千発の花火大会があると聞いて早速見に行った。熊本港からフェリーで1時間で島原港に着いた。島原城で歴史資料を見て、同じ半券で長崎平和祈念像の作者の北村西望記念館と観光復興記念館を見学した。観光復興記念館の他にも建設省の普賢岳資料館や深江町の道の駅などでも火砕流の恐ろしさを展示する博物館があって、道の駅では大型テントの中に埋もれたままの家を移築して公開するなど迫力ある展示であった。 それらを見学して感じたことは「温古知新」と言いながらも、我々はまだ甘いなと言うことである。自分たちの町の暗いイメージをわざわざ他所に宣伝することはないが、島原ではあえて逆手に取って災害の恐怖と教訓をPRしていることに、島原の人たちの勇気と力強さを感じた。 数学で絶対値という記号がある。マイナスでもプラスでも絶対値を付ければプラスで表示する。マイナスな事でもマイナスであるほど絶対値を付ければ大きな値になるのである。普賢岳の火砕流の被害も島原の人たちは、マイナスをプラスに考えようとされていた。 高千穂のみならず宮崎県全体においても、過疎問題や高齢化問題等解決すべき問題があるが、島原の「ガマダス」精神を学びたいものだ。 日向国風土記逸文の瓊々杵尊の天孫降臨神話でも籾を蒔いて明るくなったが、今こそ「温古知新」の種を蒔いて、プラス思考で行きたいものだ。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第44回(2000年6月19日)
古代人の生活の知恵
緒方俊輔
ケチな趣味であるが、私は、デパートやスーパーでアイデア商品のコーナーをウインドウショッピングするのが好きだ。また、パソコンや電化製品のパンフレットを比べ読みするのも経費ゼロで結構楽しめる。そこには小さなことではあるが生活を便利にしようという工夫が見え、楽しい気分になる。 平成十二年度の発掘調査として上野の岩坪平に携帯電話の基地が建設されることになり平成十一年度の冬に試掘調査をしたところ遺跡が確認されたため、費用や期間など原因者負担の全面的な協力を賜り発掘調査を行うこととなった。 鉄塔の建つ範囲の狭い範囲の調査であったが、遺構としては弥生時代後期の竪穴住居一軒とゴミ穴と思われるの土壙(どこう)一基を検出した。また、遺物としては磨製石鏃の製品と未製品と砥石がセットで出土したことからこの場所で磨製石鏃を生産していたことがわかった。 町内上田原の薄糸平遺跡でも磨製石鏃の完成品と未製品と砥石がセットで見つかっており、生産地と考えられている。これに対し町内三田井の吾平原第2遺跡は磨製石鏃の完成品八〇本が出土しており消費地である狩り場であったと考えられている。 この他、弥生後期の土器の中に片口甕の破片があった。四センチ角の小さな破片であるが、よく見ると口縁の一部が鳥のくちばし状に張り出して、中の液体をこぼさずに注ぐ工夫が感じられた。 土器に片口を設ける工夫は、弥生土器では静岡や大阪などで例があるが、宮崎県内では初めてであった。縄文時代は、急須のように注ぎ口を作る注口土器があり、古墳時代では壺の胴部に竹を刺す穴を持つ「はそう(漢字では、瓦へんに泉と書く。)」と呼ばれる土器も作られる。中世になって東播磨で盛んに作られる「東播系のすり鉢」では立派な片口が作られるようになる。 ちょっとした工夫の積み重ねが生活を便利にしている。中に入っていた液体が水であったのか、酒であったのか定かではないが、古代人のこぼさずに注ぎたいという気持ちが感じられ、よほど大切なものが入っていたのだろう。 「温故知新」の諺のとおり、古代人を見習って我々も何か工夫を考えてより便利な未来を作って行きたいものだ。 そしてそれらのアイデアの源は近年の最先端技術では軍事産業であったりするが、やはりいつの世も平和なものであって欲しいと願っている。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第45回(2000年8月7日)
上岩戸の供養踊り
緒方俊輔
「急げしと祈りの船の出るまで乗り遅れては誰もわたさん。」 この歌は、高千穂町上岩戸日出地区で毎年八月十四日に行われる供養踊りで歌われる歌の一つである。 私は、フォレストピア森林文化集落資源保全活用事業で民俗芸能のビデオを作成するにあたってのシナリオ作りのために、日出公民館の佐藤和男館長から供養踊りの歌の書かれた資料をコピーさせていただいた。 上岩戸日出地区の供養踊りは、まず最初に墓地で十三段の歌を三通り歌い、次に初盆のあった家の庭で太鼓や鉦を鳴らして回り、直会の御馳走を食べて、他の初盆の家を巡って行く。 冒頭に紹介した歌で私が思い出したのは「急げ人みのりの舟のい出ぬ間に乗り遅れては誰や渡さん」という神楽歌であった。この歌は、明治二十三年九月八日に土持信贇が書いた「神楽の濫觴」に登場する神楽歌で「よよをへて後仏法盛んなる頃法師等の作りたりとみえて、急げ人みのりの舟の云々などいへる歌は、いと忌ま忌ましく神前にてうたふ歌にあらず。」と書いている。 国学が盛んとなる江戸時代後期から明治五年の神仏分離令が出され国家神道が盛んとなると、廃仏棄釈が神楽にも影響を及すようである。 「急げ人…」の神楽歌は 現在でも三田井や岩戸などでは歌っていないようで上野・下野・田原・河内地区では歌われている。 供養踊りの歌についてはこれまで高千穂町老人クラブ連合会の「高千穂の古事伝説・民話」一九九〇年に下押方地区のものが紹介されており、高千穂町文化財調査報告第七集「高千穂の民俗芸能」一九八七年で三田井地区のものが掲載されているが、歌の内容を比較すると、上岩戸のものが最も詳しく、次いで下押方、さらに三田井とつながるようである。 盆の行事であるがゆえにこれまであまり調査が進んでいなかったために新しい発見があった。高千穂町内の仏教は天台宗・曹洞宗・浄土真宗の三つの宗派が伝わっているが、今回の供養踊りは浄土真宗の影響が強い。 神楽の研究は何も冬に限ることではなく、夏祭りにも研究のヒントが隠されていた。 民俗学の宝庫を実感するとともに、今こそそれらを記録保存していく必要があると改めて感じた。 今年の盆は実家に帰る日をずらさなくてはいけなくなったが、今まであまり知られていない民俗伝承を調査できるかと思うとワクワクする今日この頃である。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第46回(2000年9月27日)
高千穂の七五三縄
緒方俊輔
七五三縄と書いて注連縄と読む。辞書にも載っているので標準語である。 先日、神奈川県茅ケ崎市の池田錦七さんという方から高千穂の注連縄についていわれを教えて欲しいと問い合わせがあった。 ところで、高千穂地方の注連縄は独特な形態をしている。神前に向かって右から七五三と房がスダレ状に下がっているのである。 これは「天神七代・地神五代・日向三代」を表現しているとも言われている。藤寺非寶編「高千穂特別記録文献資料」(=一九三九年)にある「建長八年(=一二五六年)丙辰高千穂十社宮神祇之文」に天神七代・地神五代が紹介されている。 古事記と日本書紀とでは同一の神名も異なる表記がされていたり、どちらか一方にしか登場しないものもあったりと複雑である。 高千穂十社宮神祇之文に記載の神名は、日本書紀の名前が使われているが、長い名前の神名が二つに分かれて記載されていたり、混乱が見られる。また七代といっても七人ではなく、夫婦で一代と数えたり、天照大神も女性であるが兄と書かれていたりする。 即ち、天神七代は、國常立尊・國挟槌尊・豊斟渟尊・泥瓊尊&娑瓊尊・大戸道尊&大戸間邊尊・面足尊&惶根尊・伊弉諾尊&伊弉冊尊で十一神であり、地神五代は天照大神・素戔鳴尊・正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊・天津彦彦火瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・彦波瀲武鵜草葺不合尊の五神である。そして地神五代のうち終わりの三神の天孫降臨瓊瓊杵尊から神武天皇直前までが日向三代となる。この天神七代・地神五代は、神楽の唱行にも登場するが、口頭伝承を文字にしたためか明らかに誤字と思われる名前も多い。 町史編纂室の興梠弥寿彦さんから三田井神殿の田崎則寿家文書の「注連大事」という文書を教えていただいた。「七五三、諸神勧請吉。五二三、供養ニ吉。三三五七、疫病消除ニ吉。七五三、天ニ引。五三一、地ニ引。七五三八、霊気ニ引。二二、疫病ヤライニ引。一六五二三、光神祭ノ之吉。一六三、別火吉。三三五、父母供養ニ吉。五七一六、産之般吉。天文三年甲午九月吉日。融傳老納。誌之。」とある。天文三年は一五三四年であるが、祈願の内容によって注連縄の形が決められており、しかも複雑なものほど大切に考えてあったことがわかる。 安産のお守りに五七一六の注連縄のミニチュアなんていうのを作ってみては?と思ってしまった。 古文書を読むと新たな発見があって面白い。(高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第47回(2000年10月27日)
明治三十年の高千穂
緒方俊輔
先日、長崎県東彼杵郡波佐見町の橋口さんから渋江庄造の「九州漫遊日記」という資料のコピーを送っていただいた。渋江庄造は波佐見町の教員をしていて明治三十年(=一八九七)四月四日から五月十日まで九州一周旅行をしており、その時のことを日記に残していた。高千穂にも五月一日から二日にに立ちよっており、三田井や岩戸の事を書いている。 その中で興味深かったのは、三田井で千歳屋という旅館に宿泊したが、お金が無いので旅館のおかみに相談して、汗を流そうと風呂に行って戻ったら、部屋のお菓子と床の間の植木が消えていたそうであった。それで、この世の中はお金が何物にも優るのであろうかと書いてあった。 何とちゃっかりしていたんだろうと思ったが、「ただしここの宿の人達はよい人であった。」と書かれていたのは救いであった。 明治三十年頃の三田井には、小手川善次郎氏の遺稿集と今長コマ氏と吉玉ナヲ氏の話をもとに高千穂町教育委員会がまとめた資料がコミュニティセンターの図書資料にあった。早速見てみたが、和泉屋とか肥後屋とか旭館という旅館の名前があったが、千歳屋は載っていなかった。したがって残念ながら今のどのあたりにあった旅館かはわからなかった。 また、小学校で幻燈会があって日清戦争と赤十字社という題であったことが書かれていた。 町史編纂室の碓井哲也氏に尋ねてみると、ちょうどそれと同じ記事が岩戸庄屋の土持信贇日記に登場するということであった。しかも面白いことに高千穂における映画の最初ではないかということであった。 岩戸では、天の浮橋に行って、矢の根石(石鏃)を一個二銭で買ったと書いてあった。ちなみに翌日高森で食べた団子の値段は四銭と書いてあった。埋蔵文化財担当者としては、町内の遺物が町外に流出したことは残念であったが、当時の人も神話と伝説だけでなく直接我々の先祖が残した考古学的遺物に関心を寄せていた事は、嬉しかった。 百三年前の旅行記であったが、高千穂の人の人柄が良い人であったと書かれてあったのは嬉しかった。旅館業界の人達にもこのことを知ってもらって、今後のサービスに活かして欲しいと思った。 記録として残っていたため、いろいろな事がわかった。参考になることも書かれているので、古くて汚いゴミの山と思うものでも調べてみるとお宝であったりする。皆さんの家にも何かあるかもしれませんよ。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第48回(2000年11月1日)
高千穂のお国言葉
緒方俊輔
高千穂町は、九州のへそと呼ばれる蘇陽町のやや北東にあるため、九州の心臓の位置にあたる。そのため日向でありながら豊後・肥後の影響が強く、言葉にも色濃く残っている。 今でこそ道路や橋が整備されつつあるが、その昔は隣町への移動でさえ大変な苦労があったと思われる。 幸い、原田欣三著「西臼杵方言考」一九六八年という本があったので、大概の高千穂弁は載っていたのでよくわかった。 しかしながら、茶飲み話の中でもチンプンカンプンな単語が登場し、思わず聞き返すこともしばしばあった。例をあげると、「とごえる・ほたえる・すばえる・ぞうくる」は「ひょうきん者がふざける」という意味で、「でやす」は「たたく」の意味、「ほがねえなる」は「決まりが無い・しゃんとしていない・ざまが無い」の意味である。これらの意味の単語が「西臼杵方言考」に載っていなかったのは、著者の原田欣三氏が、学校の先生であったため、まだ教師の前ではきちんとした言葉を使っていた当時の子供たちや父兄からちょっとだらしない意味の悪い言葉は採集できなかったと想像できる。 また、「しぱむ」は「あけびやザクロ等の種の多い果物を食べるときにしゃぶって種を出す」意味であるが、自然にアケビなどが見られなくなるとともにあまり使われなくなったようである。 自然関係では、「しじゅがら」が「カマキリの卵」の意味で、「びっちょ」が「魚の幼児語」、「ふ虫」が「カメ虫」、「きしゃむし」が「ちしゃむし」と同じで「いもり」、「いげどろ」が「植物のとげ」であるが「西臼杵方言考」に載っていなかった。 この他にも載っていないものとして、「くとされ」は「早く寝ろ」、「つざらん」は「行きわたらない・足りない」、「せっかくねえ」は「狭い」、「ひそー」は「久しく・暫く」、「たんぷり」は「水たまり・池」、「みんみ」は「めいめい」、「せまぎり」は「おせっかい者」、「つうじいけ」が「走って行け」、「つうじ来い」が「走って来い」、「ゆるす」が「はなす」、「たちかぶる」が「草木や髪の毛がぼうぼうにのびきった」、「うったてる」が「付け加える」などがあった。 まだまだこの他にも載っていない方言がたくさんあると思われるが、それらもいつか誰かが記録しておかないと、使わなくなると意味がわからなくなってしまう。お国言葉も文化的財産で、大切にして二十一世紀にに残したいものだ。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第49回(2000年11月12日)
九州にクマはいるか
緒方俊輔
福岡県春日市在住の栗原智昭さんという人は、インターネットで「エコロジスト栗原」のホームページを開設し、「クマ探し日記」を書かれている。山口大学から金沢大学大学院博士課程中退、青年海外協力隊でアフリカのマラウィ共和国で自然保護管理員をされ、帰国後は野性生物カメラマンをされている。高千穂町内での目撃情報が頻発しているので、現在十日に一度の割合で福岡から無人カメラを仕掛けに高千穂へ来られている。 江戸時代後期の享保から昭和三十年代までのクマ情報は、加藤数功・立石敏雄編「祖母大崩山群」一九五九年に詳しく、大分県で十九頭、宮崎県で三十一頭がリストアップされている。 高千穂町内には熊塚と呼ばれる熊の供養の石祠が五カ所ほど確認されている。その中の一つ、大字上野字誌井知の桐木重綱氏宅裏の熊塚は、高千穂町史編纂室の興梠弥寿彦氏の御教示によると、桐木村右衛門の日記にも記録が残っているそうである。「天保十五年十月二十九日より三十日迄、村右衛門所熊つか石立くふやう(供養)相すみ候。尤も、ろうそふ(老僧)・しめ(注連)・おんきやう(お経)。三人御出下され候。尤も、老僧は二十九日晩より御出下され候。」とあり、老僧が遅れて来たと細かな内容まで書かれていた。現在も桐木家の裏に石祠があり、御幣等が置かれ祀ってある。 一般に野性生物は、五十年間目撃例が無いと絶滅になるそうで、「宮崎県レッドデータブック〜宮崎県の保護上重要な野性生物」二〇〇〇年にはツキノワグマは絶滅となっている。しかしながら、大分県側は一九八七年に笠松山で一頭が猪と誤って射殺されてから五十年は経っていないため、「熊注意」の看板が立てられている。 クマ自身は移動するものであるし、クマ自身は県境とか考えることはないので宮崎県側も注意はする必要があると思う。 インターネットでも岩手県盛岡市の某アウトドアグッズ専門店がクマ情報を集めたホームページを作っているが、クマに出会った時の注意とか対策とか紹介されている。また、クマ除けの唐辛子スプレーや鈴等も通信販売されている。 アイヌ語では、クマのことをカムィと言うが、「神々の里・高千穂」は、その昔クマの里であったかもしれない。 目撃情報だけでなく、まずは写真撮影、続いて毛や糞の科学分析及び捕獲及び発信機による縄張り調査、国立公園化など今後どうなるのか見守って行きたい。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第50回(2000年12月4日)
おいしい料理の味は
緒方俊輔
最近私は、歴史学習は、料理みたいなものだと感じている。 高校でも歴史を選択しないで大人になる人も増えているし、小学校でも円周率はおよそ3と教えるそうである。学校教育と社会教育は車の両輪とも言われているが、社会教育が知らないうちに学校教育のタイヤが新しいものに替えられてしまっているようである。 先日も、資料館に昔の偉人を調べたいが天照大神を教えて欲しいと言ってきた児童がいた。偉人なら実在の人でなくても良いの?と聞くとあまり深く考えていないみたいで困った顔をしていた。 また、別の先生からは○月△日の×時間目の総合的学習の時間に生徒が尋ねに行きますが宜しくお願いしますとの電話があった。 こちらでわかる内容ならばお答えできますが、突然来られても準備が入りますのでと答えた。どんな質問があるのかちょっと心配ではあるが、私も勉強になるので楽しみではあった。ただ、事前のお願いのやり方とか先生も生徒さんもきちんとしていただければと思った。 歴史の勉強の方法には、お年寄りに聞く民俗学と記録資料で調べる文献史学とものから調べる考古学があるが、一般の人にとっては歴史がわかればいいという感じである。つまり料理でも日本料理であろうが、中華料理であろうが、フランス料理であろうが、イタリア料理であろうが、美味しければいいのである。 学校教育の内容の変化に伴い、社会教育サイドでも美味しいメニューを考えなければならない。 国際化・環境問題・人権問題・自然保護・福祉問題・高齢化・過疎化・IT等味付けにも工夫が必要である。また、展示手法もインターネットをはじめ様々な映像や音声等の資料をはじめバーチャルリアリティの資料等工夫が必要である。 巷では、レンジでチンのレトルト食品が溢れているが、栄養の偏りが問題視されている。 また、食品への異物混入事件も相次いでいるが、原因や責任が解明されるまでは、食べる側が注意するしかないと思う。 インターネットでも高千穂と検索しても、某新興宗教や某オカルト健康グッズが引っ掛かったりする。 情報という料理をいかに美味しく食べるのか、作るのか、二十一世紀の博物館の学芸員は、充分なマーケティングリサーチと修業が必要であると思う。 時にはアウトドアのサバイバル料理だとかアイデアは一杯であるが、お味はいかがかな? (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第51回(2000年12月28日)
今もなお続く猪掛祭
緒方俊輔
毎年、旧暦十二月三日に高千穂神社で「猪掛祭」が行われる。神武天皇の兄のミケヌノミコトが、二上嶽ふもとの乳ケ岩屋に住む「鬼八」という鬼を田部家の先祖である丹部大臣宗重と若丹部大臣佐田重の協力で退治し、首と手足と胴体に切り分け、三ケ所の鬼八塚に埋めたと伝えられている。諸説あるが、元禄四年の文献では、神殿のホテル神州前と市の祝子(ほうり)の高千穂高校プール横と古賀の神仙旅館下ということである。 霜宮鬼八といわれ、農作物に霜の害をもたらすと考えられており、霜の害を鬼八のたたりと考えた里人は、鬼八の好きな乙女を生けにえとしてささげたと伝えられている。戦国時代に日之影町中崎城主の甲斐宗説が、乙女はかわいそうなので、イノシシに替え人身お供えの風習はやまったと伝えられている。 阿蘇では金八法師という名前でタケイワタツノミコトの家来として矢を拾う役をしていたが、仕事に疲れて嫌になり九十九本目の矢をミコトに投げたために首を切られ、首は現在の霜神社に飛んで行き、毎年旧暦七月七日〜九月九日に「御火焚き神事」が行われている。 朝八時前のかまど払い式の後、三斗三升三合の米が炊かれ、拝殿前で氏子に役目が発表され、天真名井や御塩井桜川妙見社などにかけぐりやしめ縄を掛けに行き、鬼八塚にはイノシシの肉も持っていくのである。氏子の中の二人が、長いやりで「ホーイホイ」の掛け声で天を突きながら神社をそれぞれ反対方向に三周し、日之影町大人の丹部家からイノシシが運ばれる。神官やみこさんが木の鉢にご飯をつぎ分けると、場所を写して、鬼八塚の前で神事が行われる。 祝詞、玉ぐし奉献の後、神社拝殿で笹振り神楽が行われる。「しのべや、たんがん、さぁりや、さぁそう、まとはや、ささくり、たちばな」の歌を七人が七回ササを振りながら歌う。高千穂神楽の原型といわれる素朴な舞である。鬼八眠らせ歌と伝えられており、高千穂から神楽が伝わったとされる大分県九重町の玖珠神楽では大倭神楽にこの歌が登場するが、意味は解明されていない。 鬼八についても「谷が八つ峯が九つ戸が一つ鬼のすみかはアララギの里」の神楽歌に登場するアララギが荒良木に通じ、山部の氏族、興梠氏との関係が指摘されている。 歴史を表から見るのか、裏から見るのか、どういう視点で見ていくのか、その仮説をどう証明するのか、には古文書の発掘と研究が必要不可欠である。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第52回(2001年1月11日)
仏教色強い神楽歌
緒方俊輔
「中央六部に行えば宝のはちすも雨とこそ降る」 高千穂の夜神楽の神楽歌の中で中央の舞いに歌われるこの歌は、最も仏教色を残している。 これの元となったものが高千穂神社所蔵の「はちたたき歌」(年代不祥)では「中王ろくぶにおこなへば、たからのはちすもあめとふる」とある。 京都精華大学の田中貴子助教授の「仏像が語る知られざるドラマ」講談社新書、二〇〇〇年によると、三重県伊勢市朝熊町の朝熊山金剛証寺の雨宝童子の解説で『雨宝陀羅尼経』の「宝が雨のように降る」という表現があり、効験のいちじるしさを表していると書いている。また、「有情非情の精魂」「世間万物自然の本主」で天照大神のことであるそうである。 東北大学の佐藤弘夫助教授は「アマテラスの変貌〜中世神仏交渉史の視座〜」二〇〇〇年の中で、奈良県長谷寺の雨宝童子を扁額に「天照皇太神」とあり、天照大神のことで神仏習合の名残と書いている。 中央六部の歌は、仏教色が強いため、近世の神楽改革の際に一番に抹殺されるべきであったであろう歌であるが、天照大神と関係の深い雨宝童子関連の歌ゆえに生き残ったのだろうかとふと思った。 高千穂神楽では、舞いと歌が関係しており、四方舞には「四方念じて拝むには諸注連(しめ)共に御幣とどまる。」を歌い、中央の舞に「中央六部…」を歌い最後に「八雲立つ出雲八重垣妻込めに八重垣つくるその八重垣を」(上野田原系統では「八雲立つ出雲八重垣妻込めに八重垣つくる(またはつもる)出雲八重垣」)と歌う。その他の途中は「ハナ」と呼ばれるリーダーの自由選択歌となっている。従って、舞う人は舞っている最中にカルタ取りの様に「ハナ」の歌う上の句に耳を澄ませ、下の句を合唱しなくてはならないのである。例えば「日向なる」と歌っても次の文字が「あ」なら「あいぞめ川の端にこそ宿世結びの神はまします」であり、「ふ」ならば「二上岳の麓には乳ケ岩屋に子種まします」と歌うことになる。 珍しい歌としては、回文の歌で「高千穂の名は山田舎もとむらむともかな今や花のおち方」がある。 言葉が古いのでわかりにくいが、何度か耳にすると少しは、わかってくる。地区によっても違いが見られ、奥が深いものである。 今季は年が明けても二月十〜十一日の上田原まで丸小野・河内・尾狩・下田原・黒仁田の各地区で夜神楽が行われる。是非一度、見学に来て下さい。 (高千穂町歴史民俗資料館・学芸員)
第53回(2001年2月21日)
古代の言霊の思想
緒方 俊輔
岩戸黒原の佐藤省一氏所蔵の古文書に安政七年「御遍以紀流法也(御幣切る法也)」という古文書がある。宮崎県教育委員会「古文書所在確認調査報告書」一九七五年にもタイトルが載っていたが、内容は載っていなかった。そこで私は「えりものの型紙などが書かれているのではないか?」と予想していたが、その内容は文字ばかりであった。大神寺大泉院校永閏が書いたもので、実際には仮名で書かれているが、わかりにくいので漢字で表記すると「幣を切る法。小刀を取る時、手に取りし刀を何と申しやらんもん。幸作りし不動へりから。紙を取る時、この紙は神代を治むる神なれば神代に王と言うぞ嬉しき。竹を取る時、この竹は高天原に育つ竹生えて茂りて神代にぞおう。板を取る時、この板をつけの板とは誰も言う。悪魔を祓う悪たらの板。幣を立つる時、幣立つるここも高天原なれば集まり給え四方の神々。終り。」とある。
高千穂神楽では、えりものの準備は前日または当日の午前中に済ませていることが多いので、椎葉神楽の板起しの様に準備の儀式は行わない。椎葉村大河内神楽の板起しは、「ばんばんすえて、ばんすえて、如何なる匠の作りばん、飛騨の匠と、武田の番匠、鉋借り掛けて、御山桜のかばを持ち、八所閉じたるばんなれば、言うにやこぼれしばんの世に、こぼらば世に出よ、ばんの世に、世起き事をば内じゅ前にもお越えたよ、あしき事をば外一段にもお越えたよ、しゅじの来拝、時来ぬれば、蓮華の酒盛り初めては、其の肴に切るものは、猪の獅子、鹿の獅子、大魚も小魚も庖丁小刀、まな板、まな箸、揃えては切ったり、盛ったり、千年表と言う鶴の甲をこそ切る、万年表と言う亀の甲をこそ切る。」と唱え、榊の葉や御幣やイノシシやシカの生肉をまな板で切る儀式である。
高千穂神楽では、御神屋(みこうや)誉めで神楽宿や舞に使う神楽の道具を誉める唱教(しょうぎょう)があるが、御幣を誉める唱教は無かった。
古代においては言霊(ことだま)の思想があり、言葉に魂が宿ると考えられていた。
高千穂神楽には、椎葉神楽の板起しのような儀式は無いが、佐藤省一氏所蔵文書によって幻の板起しが見えてきた。早速、私はほしゃどんの知人に「今度準備する時に道具を誉めてみませんか?」と言ってみた。
慎吾ママの「おはー」が昨年の流行語大賞であるが、道具も挨拶されると気持ちが良いかもしれない。
(高千穂町歴史民俗資料館学芸員)
第54回(2001年3月9日)
石工甲斐翁の足跡
緒方俊輔
平成十二年度遺跡詳細分布調査は、旧岩戸村を実施した。その中でも、甲斐有雄翁の活躍の跡が見てとれた。 甲斐翁は熊本県阿蘇郡高森町野尻の石工で神職でもあり、大分・熊本・宮崎にまたがり生涯に二千五百以上も道しるべや神像、仏像を彫刻した。 私財を投じて世のため人のために尽くした姿から、熊本県の道徳の教科書にも載っている社会福祉家である。 旧田原村や上野村でも活躍の跡が数多く残っていたが、岩戸村でも幾つか見ることができた。
上寺公民館区は上村と寺尾野が合併してできた。甲斐翁の作品は、上寺公民館区に集中しており、道路記念碑の石板と道しるべ二基があった。 道路記念碑の石板は下野と結ぶ岩戸越えの峠の下のがけに残り、「明治十五年四月二十一日着手、六月四日落成」とあり、戸長以下、世話人の名前が並んでいる。 また、峰の工藤登且氏宅前に道しるべがあり、「右可むら、左しもの、甲斐有雄」と彫られていた。それから、甲斐良一氏宅上の三叉路の上にも道しるべがあり、「千百五十二、右天のいわと、左をさこ、甲斐有雄」と彫ってあった。こちらには通し番号が打ってあり、数の多さは甲斐翁の活躍を物語っていた。 残念ながら、道しるべは位置が移動しているが、幸い本物が捨てられずに残っていたので、甲斐翁の足跡を知ることができた。 道路記念碑の石板の方は、風化が著しく有雄の雄の文字と有の月の部分は欠損していて分からない状態である。
甲斐翁の研究家である大字河内在住の富高則夫氏に早速連絡を取って見てもらった。富高氏の研究によって、かなりの作品がリストアップされているが、今回の発見は喜ばしいことであった。 教育改革の一つ「総合的学習」においても郷土の文化財やボランティア活動など積極的に進めていくことと思われるが、甲斐翁の業績についても教材としてお薦めの材料である。
「陸の孤島」とも呼ばれる本県としては、道路網の整備は悲願である。それとともに、通行する人は増えるが、彼らを気持ちよく通行させるのも、観光地に立ち寄らせ、休憩してもらうにしても、案内板一つのデザインや内容をどうすればよいのかなどにかかわってくると思う。
各学校にパソコンが導入され、ホームページで地域を紹介するためには、歴史や文化財ファンが増えることを願っている。(高千穂町歴史民俗資料館学芸員)
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