「日州高千穂古今治乱記」の大神氏由来
抑、大神氏の家系を尋るに桓武天皇の御宇延暦(=西暦782〜805年)之頃、豊前国宇佐郡由原八幡之御建立として堀川の大納言兼基卿ハ豊後日向の境塩田村(=豊後国速見郡八坂。現在の杵築市)に仮館を立給ひて宇佐八幡宮御建立有りしに塩田村の長者が娘に心をよせられしに娘程なく懐妊しける去程に宇佐の宮悉く成就して兼基卿は上洛ありて此旨奏聞申されける。彼塩田村の娘は程なく安産して女子誕生。長者夫婦の悦び大方ならず。此旨京都兼基卿へ申上げるに御悦びましまして、随分大切に育つべきよし御意有りける。此子成長に随ひ、ならび無き美女ニて双親の祖父ばばも末たのもしく育ける。然るに十八才ニ至て爰に日向国高千穂五ヶ所村祖母山とて高三里半、海上よりは拾里八丁高山なり。廻り三十里ニして其足日向は云に不及、豊後肥後三ヶ国ニまたがり、日本唐天竺三国無双の大山。駿河の富士山一里余り勝りし名山なり。祖母山明神ハ地神五代鵜萱草葺不合の尊の母君也。然ルニ此神十七八の男子に姿を変じ、夜な夜な彼娘に通ひ給ふ。娘男の在所を尋ぬれどもつつみて語らず。母親密に娘ニ申しけるハ「此程汝が元に夜な夜な通ひ給ふハ如何なる人ぞ。只人にはあらじ。」と問ふ。娘答て宿を伺ひ候得共今にそれと明かされず。帰る方何国とも知れず。此上ハ小手巻にはりをつらぬき印となして、帰る所を見定んと申合、今夜も来り。明方わかれの時に右の針をしらぬ様に、立置小手巻の糸を知るべにしたがひ行見るに、日向の境なる大山の穴の内に糸を引たり。此穴に入り大声にてうなる音せり。娘穴の中に入り糸を志るべに御跡をしたがひ参りたり。御姿を見せ給へといふ。内より答えて「我は汝に通ひしもの也。我人間ならねバ、汝が差たる針、我をとがひ(=下顎)に阿たり痛甚しく絶がたし。」といふ。女又いふ。「はるばるしたひ参りたり。是非是非御姿見参らせたし。」と。再三願ひけれバ穴の中より這出たるは其丈何程とも計りがたき大蛇。紅イの舌を巻恐しき事いふ計りなし。供の腰元従者袖を覆ひ目を塞ぎ、二目とも見る事能わず。娘ハ涙を流し、斯共知らず我手ニて苦しめ奉る事今更悔て返らぬこと。御申事ハバ包まず語り給へ。大蛇苦しき声音にて「おことの腹に我種を宿したり。平産せよ。後ハ名高き弓取成べし。いたわり育申べし。」とやうやうに云終り穴の内に入て息絶えたり。即、岩嶽の地主祖母嶽の明神ハ是也。女其後平産男子を産む。是大神大太郎惟基といふ。成長ニしたがひ、仁義の道を学び五道(=地獄・餓鬼・畜生・人間・天上)ニ通じ、芸能万人に勝レ、豊州第一の英雄にて其聞へ高く、肥後の菊池が婿と成りて、五男を設く、一ハ太郎政次。二ハ植田七郎。三ハ大野八郎。四ハ佐伯三郎。五ハ臼杵九郎也。惟基は誉れ高く、豊後の国司となり、次第に威勢を募り、悪行日々に増長しけれバ終に召捕れ、京都六条川原にて首を刎らるべきとて、土壇に直りて一首の歌を詠む。「惟基が都もふでのから衣首筋よりぞ裁そめにけり」と詠けるを流石都人とて太刀取りひかへて御役人に達しけれハ奏聞にぞ被及けるに 時の帝聞し召れ、筑紫の荒夷にハ優き心ざし一先免るして、参内致さすべき旨、勅命に従ひ、惟基が縄を解、内裏へ参りける。公卿を以て、元祖いかなる者なると御尋也。惟基謹て我家の系図委細言上致ける処に又々宣ひけるハ抑祖母嶽の明神ハ地神五代鵜萱草葺不合の尊の御母公なれハ帝と同じ流れの汝なりとて、罪を免じ給ひ、豊後国を給わり、夫より豊後に帰国しけれバ一家一族万々歳を謡ひ、其後、末子惟盛、父の名代として、唐物和物の珍器を船に積、上洛して献じ奉けれバ、帝、大いに叡感ましまし、即、臼杵大輔四位上大神の朝臣惟基に任ぜられ、九州豊後佐伯に在城有りて、父の惟基の家を継ぎ、大神の惣領となり威勢を四方に輝しける。
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