(資料)義民・作蔵の処刑


作蔵神社の由来 
 昔、三田井の塩市に作蔵という年若い百姓が住んでいました。
 その頃藩の税金が多くて、農民はその圧政に苦しんでいましたが、作蔵とその弟甚作の兄弟は農民にすゝめて百姓一揆を起こしました。
 驚いた藩では、早速代官を派遣して作蔵兄弟を捕えさせ、高千穂に牢屋を作って作蔵兄弟を押しこめ更に今後百姓達がこのような反抗をしないようにみんなの見せしめの為に「はりつけ」の刑を言い渡しました。
 農民達は自分等の身代わりになって捕えられた作蔵達を救おうと再三にわたって藩に対して作蔵の減刑嘆願をしました。
 藩の重役達は
 「これ程まで農民に慕われている作蔵を死罪にすることは高千穂郷民の反抗心をあほることになって藩の高千穂政策上悪影響を及ぼすので死罪は免除した方がよい」
ということになり、急ぎ高千穂に死罪免除の急使を派遣しました。
 赦免状を持った急使を早馬に乗り替え乗り替え三田井に着きました。
 この時三田井では、そんなことは知らないので前からの命令通り高千穂代官が作蔵を牢屋から引き出して塩市から下野に通じる尾坂峠の麓の三方辻にはりつけ柱を立て、作蔵をしばりつけ刑の執行時間が来るのを待っていました。
 その時、藩の赦免状を持った急使が、栗毛村の峠まで来て見ると塩市の三方辻の刑場が一目で見え大勢村人が集って、作蔵の処刑を悲しんでいるようであります。
 「間にあって良かった」
と思って馬を進めたところ、どうした訳か道にさし出た松の木の枝に使者の冠った陣笠が引掛って、どうしてもはずれません。
 あわてた急使ははるか向うの刑場に向って
 「待て待て御赦免だ」
と呼ぶけれども刑場迄はかなりの距離があり言葉は聞えません。
 すっかりあわてた急使は手を振って中止を命じました。
 一方刑場では藩の処刑立合使者の到着を待つていた代官達は栗毛峠から盛に手を振って合図している使者を望見して
 「刑の執行を急げ」
 という風に感ちがいした為に哀れ作戦は赦免状の到着を待たずに塩市の刑場の露と消えました。
 村人達は泣く泣く作蔵の遺骸をもらい受け、刑場の上の野辺に葬り供養塔を建て、作蔵の菩提をとむらいました。
 それから作蔵は腰から上を槍でつかれて死んだので腰から上の病気を持った農民が作蔵の墓に詣ると必ず良くなるという評判が立って腰から上の病気をなおす神様として農民の信仰を集め「作蔵」神社として神にまつられ、作蔵供養塔に並んで神社がたてられ今尚農民の信仰を集めております。
 藩の使者の陣笠の引掛った所は、今「笠掛け」という地名になっております。
 尚作蔵の奥さんは近くの上り坂の興梠家から嫁に行って居られたがこの興梠家には作蔵さんの面という面と「開けずの箱」というのが残って居り毎年向山の高千穂太郎の墓に参拝せねばならないという言い伝えがあって今でも実行されておるそうです。
 作蔵さんの生まれた家は、大賀という姓の家で高千穂太郎の子孫であり毎年正月には川登の大賀家等何軒かゞ興梠家に作蔵面を拝みに集るというならわしがあるということです。

塩市 佐藤芳郎さんの話から

 筆者註
 この物語は単なる伝説としてはあまり遺跡が多くて、伝説でなくて史実かも知れないとも思うが時代も事件もこれを証明する資料が今のところ見つかっていないので一応伝説として伝説編に入れることにした。

以上「高千穂町史」(1973)より


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