(資料)龍駒伝説



【「祖母山頂に因む伝説」 加藤数功 一、竜駒の話】

 「むかし祖母山頂は山神の住む聖地として、女人禁制で、緒方町側からは黒岳山(池原)までこれ以上は女子供は登れなかった。祖母北稜の屏風岩で、履物類はぬぎ捨ててこれ以後は素足参りした。しかも山頂一帯は一旬伐才を守り、伐木は一切しなかった。  この祖母山群には神馬が一匹居た、この馬には角が一本だけ生えていたので、これを竜駒といわれていた。山頂の南側、奥祖母新道にかかって百メートルも下ると、尾平の急谷側に向って左側に岩屋のようなところがあるが、ここを竜駒の岩屋といった。いまでもお馬屋と称しここを探せば馬の毛が落ちていて、これを持ち帰ると幸運が来るという。  それから尾平側から見ると、祖母山頂は二俣に分かれるが、北側のピークをお花畑といい、ここで竜駒が草を食ったといわれ、この付近のスズタケを持ち帰り馬に食わせると病気をせぬといっている。また国見峠とお茶屋場(両県境)の頂との鞍部から宮崎県に入り込んだところに竜駒の池と称する湿地があり、水が得られる所で、ここを竜駒の水呑池と称している。 ところで五ヶ所の奥の笈の町というささやかな部落がある。ここは例の義経千本桜で有名な佐藤忠信が義経の都落ち後西国に落ち延び、いまの道玄越して笈をかるいこの笈の町にその名も道玄と号して余生をおくった。佐藤道玄の墓と記した古い墓もあり、道玄が越したから道玄越の名称も付けられ、この佐藤家は今日まで続いている。  むかし佐藤家に一匹のブチ馬がいた。この馬のところに祖母山の竜駒が時折り下りて来て、あの広い祖母山の山麓の牧場で遊んだ。いつのことかこのブチ馬との間に一匹の仔馬が生まれた。この馬はブチでありまた頭に一角があった。この馬は最近(明治初年)まで居て見た人も多く、この馬の死後は角は佐藤家の家宝として長く保存されていた。いまではこの家宝は行方不明で、一説では借金の入質となり大分県にあるといふ人もいる。」

その後、大分県弥生町の河野さんが持ってあることがわかり、現在、高千穂町歴史民俗資料館に寄贈されました。

  
「馬の角」を持ってあった大分県弥生町の河野さん         馬の角と古文書と箱(角は腐食して粉々。)


矢津田文書の中の「馬の角」の話

五ヶ所村庄屋の矢津田家は、田原村村廻役も出しますが、矢津田新六(=矢津田新之丞義遵)(1831〜1883)に宛てた奥村丞吾郎氏からの手紙に河内村で角がある馬がいることを知ったが、どうしても欲しいのでお礼はするから話をつけて欲しいという内容のことが書かれています。この馬の角と、五ヶ所笈の町の佐藤家から竹田の林氏に渡り弥生町の河野さんから高千穂町歴史民俗資料館へ移った馬の角との関係は、同一なのか、別物なのかはわかりません。しかしながら、珍しい馬の角の話が残っている点は、いかにも神話の里高千穂町らしい話です。
この文書は、平成15年度に矢津田文書の未整理分を整理している際に発見されたものです。

矢津田新六殿 奥村丞吾郎
至急
 
再拝、年々角ヲかわし
候由落候角有之候ハバ夫も
長々滞在大ニ預御宥害
持参候様可被下候。
御丁寧之事共別而
置不知所謝候。扨河内
丹て承候ニ而ハ其村方
馬ニ角生シ候由、慥成事ニ
申聞候。俗の諺にも珍敷
もの者馬の角と申伝候。
左様之もの者天下希有
之品ニ而物産誌ニ万載
第一之もの一向不知事故
不及尋問候処、当村ニ而
承り候ニ付、又候。其村へ参候事も
出来兼候ニ付、馬主河内村へ
牽参候様、御座可有之候。
随分相應ニ手当も呉れ
可申此段も御申聞セ乍
太議引参候様御取斗
在之度存候也
九月四日
尚々両掛之かぎ
若御宿ニ落居共ハ
不限哉紙入ニ無之候。
御さがし落居候ハバ
馬引のものへ御渡
可被下候。

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