五ヶ瀬町三ヶ所の西川功氏が民話を歴史小説としてまとめられたものです。「千木」第2号昭和29年に収められています。
西川功 高千穂物語り戦国の巻余禄「もう一ぺん坂」
(1)
「それで先生、此の坂の名を、もう一ぺん坂と言うそうですたい。そして休んだ所を、花折の元と言いますが、掘って埋めて、其処に咲しちょった花を折って供えた所と言います。」
又市爺さんも少々疲れたか、あまり話さぬ様になって時々「ヨイショ」と声を掛けて登っていたが、突然、「人間も生きるか死ぬるかという場合には、そう言う事もあるもんでっしょな先生。」と感慨深そうに言う。「そう言う事もあり得るじゃろうナ」私は生返事をし乍らも実は先から其の様な事を考え乍ら登っていたのであった。
新聞や雑誌で騒がれたアナタハンの何とか妻の問題も同じく人間の生死の境遇にある場合の性の問題で、正常の思考外の事であるが、此の場合とは根本的に相違がある。私はむしろ映画で見た外国物の「海賊船」に似ていると思った。本当の題名は「海賊船」であったかどうか忘れたが、此の映画にも偶然に「もう一ぺん」と言うのがある。
梗概は………
英国の海軍が海賊を討伐に行くのであるが、一海軍士官が部下二名と共に海軍を脱走した如く見せかけ海賊船に辿り着き、海賊の一員に加えてもらい、密に友軍を誘導する。
遇々其の海賊船は印度王女の一行の乗る客船を襲うが、英国士官も海賊の一員として働かねばならなかった。王女は侍女長の機転で侍女に変装させられ王女たるの身分は隠す事が出来たが、他の侍女と共に街で人身売買の市に出される。士官は己に身分を知って救出するのであるが、救出の際王女のあどけない顔を見て其の唇を盗んだ。今迄男子禁断の中に育てられた王女にとって、此の事は大きな驚きであり且つ女性の本能を自覚させるものであった。そしてこの英国士官の英雄的活躍に依って海賊の一味は壊滅し、印度王女は無事再び印度へ送還される様になる。そのてんやわんやの最中、士官に出会った王女は人前をも憚らず「もう一ぺん」と言って老侍女長に嗜なめられる場合がある。
私は坂道を登り乍ら、又市爺さんの話を聞いて、曽って見た其の映画の「もう一ぺん」の事を思い出していた。其の「もう一ぺん」は実に無邪気なほほ笑ましいものであったが、此のもう一ぺんは、アナタハンの実話と違って、少しも動物的な感じや卑猥と言ったような感じが湧かず悲痛と言うか深刻なものを感ぜさせられるのである。案内の又市爺さんが、坂を登りつつ、休憩しつつ話してくれたこのもう一ぺん坂の謂われと言うのは次の様な物語である。
(2)
天正19年の春、県(アガタ。今の延岡の古名)城主高橋右近大夫元種は、三田井氏を討つべく、三田井家の家老岩井川高城々主甲斐宗摂を脅迫して内応させ、当時高千穂庄十八ヶ村の領主であった三田井越前守大神親武を其の本城向山の中山城に攻め、一夕にして二千年の古い家系を誇る三田井氏を亡ぼしてしまった。
何分にも家老と頼む甲斐宗摂の不意の反逆で、中山城は忽ち火災に包まれ、上を下えの大騒ぎの中に、城主三田井親武は寝所に攻め込まれ首級を挙げられてしまった程であるから、居合わせた家臣や急を知って集まった付近に住む重臣も、或いは切死し、或いは降り、或いは自決して支離滅裂の状態であった。漸く叫喚の乱軍の中を切り抜けて血路を開いたものも追手に急迫せられ、夜闇とは言うものの、間道伝いに落ち延びる事は容易な業では無かった。
(3)
何処をどう通って来たのか、三ヶ所坂本から諸塚村七ツ山に越す坂にさしかかって、今にも倒れそうに疲労した娘を連れた一人の武士があった。
姫君とも見るべき娘は十七、八才であろうか、世に謂う花のかんばせ月の眉、少し青ざめた顔に、時々苦痛の色を見せるのが凄い程美しい。引きずられる様に武士に執りすがっている。武士は甲鎧こそ身に着けて居ないが血に染んだ八巻、股立執った袴に草履ばき、一方の肩に担いだ抜き身の槍は見ずとも一目で、落武者である事が判る。
人品骨柄と言い服装といい、所々刀傷や血痕はあるが其の風体で三田井家の身分ある武士である事は間違いない。
二人とも疲労し切っていて、姫は歩行も困難らしく、今にも倒れそうになるのを武士に励まし励まし肩に懸かる様一歩一歩歩いている。
「もう歩けません、竜にかまわずに。」
「馬鹿ッ、もう少しだ、峠を越せば何とかなる。」
「お父上は大事な体、又追手がかからぬとも限りません。竜が居ては足手まとい、竜にかまわず、ちっとも早う。」
吐切れ吐切れにあえぎつつ娘はぐったりなってしまった。此の二人の落人は主従でなく父娘であり、娘の名をお竜と言う事は、二人の会話で判るが、父と言う武士の名は判らない。
死んだ様にぐったりと倒れている娘を引き起して、何か叱る様に励まし乍ら武士は、娘の帯を手早く解いて、娘を背負って立ち上がった。一歩一歩坂道を上がって行くが、自分も疲労している上に背の娘は十二、三貫もあるであろうか。
杖にした槍の柄に脂汗がにじみ、八巻に溢れるばかりの汗が時々目にしみる。摺れ落ちそうに鳴る背の生身を、立ち止まっては摺り上げ摺り上げして登って行くが、実際には時間の割りに幾らも登っていない。
流石に武士も幾度目かに息を入れようと、よろめく足を踏みしめんとしたが、其の儘よろよろと草むらの中にへたばってしまった。
「駄目だ、最早是迄だ!自分一人なら、どうにか落ちられ様が、娘がこの有様では………兎に角……」
つぶやき乍ら背負い帯を解けば、娘は草むらの上に崩れる様に倒れた。
「そうだ!武士らしく此処で自害!」
脇差を鞘ぐるみ腰から抜き取って前に置き、昨夜来の武装を解いて静かに吾れと吾が腹をさすった。
不思議と気が静まって昨夜来の不意討の恐怖も疲労も感ぜず、夢の様に昨夜から今日にかけての出来事が浮かんで来て、最も刺戦の激しかった一騎一騎が廻り灯篭の様に次から次へ頭の中に浮かんで来る。
(4)
主君も討たれた、誰も切腹した、そうだ、あの時若し敵の一人が石垣から足をすべらせなかったら自分も討たれていたかも知れない。それから先は無我夢中で乱軍の中を切り抜け、何時か足は自分の妻子の居る居宅の方に向いていた。
妻と娘と女中の三人は裏の竹薮の中にひそんでいるのを見つけ出したが若党の姿は遂に見うけなかった。
主君の屋敷は炎々と燃え上がり、バラバラの火の粉が時々降って来る。勝ち誇った様な敵の矢叫び、「そっちだそっちだ逃がすな」という落人を追う一隊が駈け過ぎるのが火事明かりに写る。
「奥!続け」と言いざまに娘の手を引いて、押方村の小谷内の細道を走る。振り返ると、「奥様は危のう御座います」と、女中が内儀の手を執り乍ら後をついて走って来る。
暗がりに前方をすかして見ると、幾組かの老若男女が走っているのが見えたが、是は押方川の方へ下りて行く様子、折柄「ギャーッ」と断末魔の声と共に「左だ左だ山道を追へ」「お
お下道も行くぞ逃がすな」という声が聞こえる。振り返って見ると、ザワザワという人の騒音が何やらわめく敵か味方か判らぬ叫び声。
「竜!母上は」
「最前迄は、松やと一緒に手を執って、蹤いて御出になるのが判っていましたが」
「しまった。竜、其処の木の影に隠れて居れ。連れて来る。」
と引き返そうとしたとたん、どしんと突き当った鎧武者。
「アッ」
「おう失礼、何をぐずぐずして御座るか。敵はもう、徳別当の方にも廻りましたぞ。後ろからも追っていますぞ。飯干豊前守は今其処で討死せられましたゾ。サ早く。」と鎧武者は
彼を押し返した。
「こっちだこっちだ逃がすな。」
暗くて姿は見えないが声は近い。
「来たぞ来たぞ。」
又、二、三人の味方が暗がりの中から叫び乍ら駆け上がって来る。
「いけないッ、お竜来いッ。」
一瞬、妻の顔が脳裏を走ったが、バタバタという逃亡者の足音と共に、思案する余裕も無く、父娘の者も是に続いた。そして夜が明けた時は、父娘の者は十四、五軒の村を見下ろす山道の中腹を横伝いに歩いていた。
親切な百姓夫婦の稗飯で腹ごしらえして、渓の丸木橋を渡って教えられた間道伝いに七ツ山越に出る山道に出たのが二刻も前であったろうか。
(5)
フト気がつくと娘もいくらか精気を取り戻したらしく、上半身を起して父に抱きつく様にしなだれかかっているが、脚は背負われた時のままである。下帯一つでずり上げずり上げ背負われたので、着衣は乱れて神々しいばかりの娘の白肌を四肢に匂わせている。子供だ子供だと思っている間にすっかり娘になり切っている娘に驚き、男子としての目をそむけた。
思えば可愛想な娘よ、一人前の女体に生まれ乍ら女の喜びも知らず死ぬる事の!
此の儘道連れの死出の旅路か!
フッとため息を吐いた。
と、頭に浮かんだのは、昔から巷間密に語られている人間最後の精力を集める事はあの事であるという話。
然も其の為に男子は弱るが女子は強くなると謂う。真偽は知らず、考えられぬ事もない。
捨てるか、殺すか、その手段をとるか。
娘は父の心を知るや知らずや、意識してか無意識にか本能的なはじらいさえ見せてひしと取りすがっている。生きる可きか、死す可きか。生きるとすれば夫婦にあらぬ親子の畜生道を如何せん。
いや、たとえ畜生道に堕ち様ともそれで娘の生命が生き延びるならば、よしや助からぬにしても一人前の女となって死ぬならば本望ではあるまいか。
彼は悶え苦しんだ。
死は易く生は難しとか。
天正十九年四月三十日の午後の陽が、萌え出たばかりの青葉を通して軟らかく射して居り、ほのかな草の匂いが二つの生命を他所に芳薫を乗せて、静寂其のものの様な山肌を漂っている。
(6)
父はむっつりと不機嫌に娘の手を索いている。不思議と娘は生気を回復しているが、紅潮している頬の色に比べて足元は定まらない。
「もう少しだ、元気を出せ。」
「あい。」
返事をする様になっているが、行く程に登る程に足元はあやしく、あえぎあえぎ父に取りすがっているが時々崩れ様とする。
「仕方が無い。」
だまって背を向ければ娘も又だまって背負われた。
「もう一息だ。」と歯を食いしばって踏みしめる武士の足は、前にも増してあぶならしく、やがて精魂尽きた娘を道端に投げ出すように、くたくたと座り込むと続け様に両の手の袖で交互に滝の様に流れ落ちる汗を拭った。息使いも気もいくらか楽になった。早や陽も山の端に近い。此の分では峠を越しても明るい中に人里迄辿り着く事は望み薄であろう。
峠さえ越せば何とかなろうに。
「娘、発つぞ、よいか、元気を出せ。」
手を執って引き起そうとしたが、娘は父に力を合わせて立ち上がろうとせず、父の力がゆるむと又ぐんなりと草に倒れた。
「しっかりせい、もう一息だ。」
半眼を開けて、片手を宙にまさぐる様に動かしていた娘は、
「父さま、もう一ぺん。」
と絶え入るばかりの声でつぶやくと、くるりと顔をそむけて眼をつむった。
「何!!」ハッと虚を突かれた様な父の顔には、明らかに狼狽の色が見えて居たが次第に青ざめて行った。
「そうか、是迄だ!!」
悲痛な叫びとも、うなりとも判らぬ声を発したかと思うと、立ち上る時杖にしたままの槍の穂先が、夕陽にキラリと光って、今しがた「女」になったばかりの娘のふくよかな乳房の下に、にぶい音を立てて、おののき刺さった。
「ウウッ。」と一声、宙をまさぐって居た娘の手が其のまま虚空を掴むと見るや、白い肌着とがサッと鮮血に染まった。
肌着を通して噴出して来る血潮は木の間漏れの午後の陽に照らされて、或いは真紅に、或いは紫に若い生命の最後の一滴に迄映え輝いて居た。
放心した様に槍の柄を握っていた武士は、やがて其の手を離して合掌して居たが、ククッと号泣を噛み締める様な嗚咽の声を漏らして、くたくたと再び其の場に座り込んでしまった。
〜終り〜
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