(資料)高千穂町の姓氏


高千穂町に多い姓氏・特徴的な姓氏をまとめてみました。統計データは昭和60年国勢調査を元にした高千穂町内の人口比率です(高千穂町まとめ)。

佐藤(さとう)氏
 佐藤姓は全国的にも多く、源義経に仕えた佐藤忠信は「千本桜」の芝居で有名です。高千穂町大字五ヶ所笈の町と高千穂町大字岩戸西ノ内と高千穂町大字下野の三箇所に佐藤忠信の子である「佐藤道元」の墓が残り、高千穂町大字五ヶ所笈の町と高千穂町大字岩戸西ノ内には「道元屋敷」があり、「道元越」という地名が残っています。総人口の16.1%で町内一位。

 
 岩戸西の内の佐藤道元の墓              岩戸西の内の佐藤道元の墓              
 
岩戸西の内の佐藤道元の墓の看板            岩戸西の内の佐藤道元屋敷跡
   
五ヶ所笈の町の佐藤道元の墓    五ヶ所笈の町の佐藤道元の墓   五ヶ所笈の町の佐藤道元の墓   五ヶ所笈の町の佐藤道元の墓

下野の佐藤道元の墓

甲斐(かい)氏
 高千穂には「甲斐、興梠、犬のくそ」ということわざがあります。これは悪口を言っているのではなく、それくらいどこにでも存在するという意味です。阿部氏の流れの菊地氏が延久2年(1070)に則隆に時代に、はじめて肥後の菊池郡に住み、菊池氏となりましたが、その子孫の武本という人が菊地の荘の相続について本家と争い、甲斐国に去って鎌倉幕府に訴えましたが、なかなか簡単に片付きませんでした。南北朝時代になり、足利尊氏が天下の権力を握ると、肥後の菊池氏はこれに反し、南朝に味方しました。時節到来と喜んだのは、武本の子孫(重村)で、直ちに尊氏に菊池荘の所有権を願い出ました。もちろん尊氏はこれを許しましたが、「武力をもって菊池を撃取れ」と命令し、氏家の子孫は菊池氏を攻めましたが、かえって菊池氏に敗れ、日向に退いて「甲斐」と名乗りました。総人口の13.0%。


河内熊野鳴瀧神社参道脇田原のイチョウ下の甲斐将監の墓

興梠(こうろき)氏
 高千穂には「甲斐、興梠、犬のくそ」ということわざがあります。これは悪口を言っているのではなく、それくらいどこにでも存在するという意味です。昔は「興呂木」と三文字でしたが、現在は「興梠」と二文字になっています。古文書では、「山興呂木」と「山」の字がついているものも見られ、古くから山辺の氏族であったようです。意味については、「大きな建築部材の家に住んでいた大豪族からきたのではないか?」という説や「男の神をカムロギ、女の神をカムロミと言っていたカムロギが訛ったものではないか?」という説があります。総人口の6.0%。


上野橋口三田井家供養塔(正面)上野橋口三田井家供養塔(左面)上野橋口三田井家供養塔(背面)上野橋口三田井家供養塔(右面)


下田原 井貫迫 興梠伊賀守の石祠


飯干(いいほし)氏
 東臼杵郡諸塚村大字七ツ山の飯干地区の弁指の菊池家に伝わる古文書によると、肥後国から落ちてきた菊池越前守という人がここに住み着いて村を開いたと書かれています。その子孫の菊池紋八良という人は、加藤清正に従って慶長2年(1597)から朝鮮の役に加わり帰りに、高麗の女性を一人連れてきたと書かれている。その古文書の系図によると、菊池越前守藤原重唯、菊池主水、藤原勝峰、飯干越前守藤原重勝とあり、以後飯干姓となっています。したがって、飯干姓は菊地氏の子孫であることがわかります。総人口の4.7%。


この他、「工藤氏(3.8%)」「戸高氏(2%)」「後藤氏(1.7%)」「田崎氏(1.4%)」「富高氏(1.4%)」「馬原氏(1.2%)」「坂本氏」「安在氏」「内倉氏」「田上氏」「江藤氏」「奈須氏」「田辺氏」「押方氏」「矢野氏」「田中氏」「田尻氏」「田部氏」「佐保氏」「河内氏」「有藤氏」「桐木氏」「津隈氏」「大賀氏」なども多く見られます。

【参考文献】
石川恒太郎 「みやざきの姓氏」ひむか新書2、鉱脈社、1986年。
高千穂町老人クラブ連合会・高千穂町社会福祉協議会 「高千穂の古事伝説・民話」、1990年。
後藤勝美 「高千穂皇神の御栄え」高千穂神社総代会、1977年。
安在一夫 「西臼杵の姓氏」(「かるめご」JA高千穂地区広報紙に連載中。)


表紙に戻る  インターネット展示室の目次へ


ページ上の文・画像の著作権は特に断りがない限り、高千穂町教育委員会に帰属します。無断複製を禁じます。(2002年5月14日) Takachiho Board of Education © 2002, All Right Reserved.