(資料)九右衛門伝説


「宮崎県高千穂町の祖母山麓から山形県飽海郡八幡町観音寺字町へ鎮座の身代開運千手千眼観世音菩薩観音堂由来」


下記は、高千穂町コミュニティセンター(歴史民俗資料館)蔵の表題の郷土史資料(No.090ー200)の内容をワープロに打ち直したものである。本来縦書きのため、文中の「左記」は「下記」に置き換えて読んでいただきたい。



(1)大正三年観音堂管理者から田原村村長宛の依頼状
「勤テ貴職ノ光栄ヲ祈ル
 扨テ御繁忙中甚ダ恐入候ヘ共、別紙縁起ヲ有スル観音ノ霊像
 古来本村ニ御安置候ヘ共、其ノ縁起中不明ノ点有リ実ニ遺憾
 ノ至リニ有之候、就テハ御手数ヲモカヘリミス左記御伺申度儀ニ有之
 候、尤モ確実ナル事ニ非サルモ老人ノ言ニ伝ヘラレシ事共ニテ宜シク
 候間、何卒御取調ノ上、御一報被成下度比段奉願上候。敬具
        観音堂管理者 長津俊静
   大正三年十月三十日
 田原村長殿 玉下
 左記
 一、観音霊像山ニ現ハレ及毋子回国ノ為本国ヲ出立セシハ何ノ年号ノ
 頃ナリシヤ、
 二、母子回国シテ本村ニ至リ尊像ヲ安置セル後尊像ノ至現ニ依リ
 本国ニ帰ヘレリト本村ニテハ言ヒ伝ヘ居候ガ、其ノ百姓九郎兵衛ノ
 家名ハ今尚貴村内ニ存在スルモノナリヤ、
      以上
 貴職ニ対シ異村ノ事ヲ御伺申候以テ申訳無之候ヘ共今トナリ
 テハ誰ニ尋ヌル方モ無之又折角ノ霊像モ年号不明ノ為メ広
 ク観音ノ御慈悲ニ浴セシムル事モ出来不申ル次第ニ付、何卒数
 々御推察ノ上右二ヶ條ニ付確実ナレハ此ノ上モ無キ次第ナルモ
 万一確実ニ相知不申ル時ハ老人ノ是迄言ヒ伝ヘシ事ニテ宜
 シク候間何分ニモ宜シク御願申上候也」




(2)大正四年一月、田原村長から観音堂管理者宛回答状
「一、観音霊像山ニ現ハレ及毋子回国ノ為本国ヲ出立セシハ何ノ年号ノ頃ナリシヤ、
 答 京大阪和州江州邊ノ霊地ヲ巡回セシ奉加帳存在スルモ遺憾ナ事ニハ年号ナシ、
  他分錦地方面ヘ順次巡回セシモノナラン。該奉加帳ノ巻首ニ記載アルモノ、
  「奉納経書写山摩尼殿二月九日」トアリ。
 二、母子回国シテ本村ニ至リ尊像ヲ安置セル後尊像ノ至現ニ依リ本国ニ帰ヘレリト
   本村ニテハ言ヒ伝ヘ居候ガ、其ノ百姓九郎兵衛ノ家名ハ今尚貴村内ニ存在スルモノナリヤ。
 答 帰村シテ逝去セリト云フ、墓碑ニ依レバ左ノ如シ。
   「釈専倫不退位南無阿弥陀仏、寛政四壬子十 試オ日、俗名九右衛門」トアリ。
   案スルニ九郎兵衛ト九右衛門トノ相違アリ、異名同人ナルヤ、年号ヨリスレバ、
   九郎兵衛ハ父ニシテ九右衛門ハ其子ニアラザルナキカ。
   子孫連綿トシテ相当ノ生活ヲ為シ居レリ、左ノ如シ。
   「宮崎県西臼杵郡田原村大字五ヶ所千参拾弐番地戸主田上熊次郎、明治七年七月七日生」
   弟富士松ナルモノアリ、日露戦役ニ従軍シ勲八等功七級ノ帯勲者ナリ、
   九右衛門ハ現戸ヨリ九代前ノ粗ナリト云フ。
   大字五ヶ所字嶽村ハ、九州ニ於ケル最高山タル祖母山ノ麓ニシテ、観音堂アリ、
   該堂ハ往昔霊現ノアリタル箇所ニ安置シアリタルモノヲ、明治ノ初年ニ至リ
   田上家ノ居住地附近ニ遷移シ、今ニ奉仕スルモノナリト。
※ 伝説ニヨレバ九右衛門ハ性猟ヲ好ミ、射術ニ妙ヲ得、百発百中ノ技アリ、亥鹿ノ類ヲ千匹
  射留ンコトヲ企願シ居タルニ九百九十九匹ヲ射獲シ、千匹目ニ至リ観世音ノ霊現ニ忽チ発心シテ
  諸国ヲ巡回スルニ至レリト。帰来其場所ニ観音ノ像ヲ安置シタルモノナリト云フ。
  観音堂ノ由来ヲ見シニ左ノ記録アリ。
  「西方過十萬億土
  有世界名曰極楽其土(其土は浄土の誤記か) 天下泰平
  奉再興南閣浮提大日本国九州日向国高千穂庄五ヶ所嶽村阿弥陀如来堂一宇
  有仏号阿弥陀 国土安穏
  今現住説法云々
  干時亨保第七壬寅天十月初十又一日 大願主 矢津田十五右衛門尉吉豊敬白
                   施主 田上九左衛門
                   大工 吉良甚五右衛門
  肥後阿蘇鐘仙昌盟書之也」
如来堂ナル如キモ、此内ノ仏体ハ観音ナリ。
尚ホ嶽村ニ老松三本アリ、内壱本ハ枯損セリ、之レハ九右衛門廻国ノ帰途、尾ノ上ノ松ノ雅苗ヲ採リ之レヲ笈ニ入レ携ヘ帰リテ植付ケタルモノナリト云ヒ伝フ
以上




(3)観音寺村、長福寺から田原村宛礼状
「謹啓 一月二十八日庶第七十号ヲ以テ御回報相成候観音縁起取調ノ件二月一日着難有拝見仕候。然レバ各方面ニ渉リ詳細御調査ニ被成下幾多御配慮ニ預リ候段奉感謝候。而シテ其子孫弥ゝ増ゝ栄ヘ帯勲者迄有之候趣キ此処ニ至リテ仏智不思議ノ御加護カ何ト無ク感涙ノ迸ヲ覚ヘ不申候。先ハ聊カ御礼迄如是ニ御座候。
追テ当地観音堂ハ昨年末火災予防ノ為メ土蔵造、三間ニ四間半ニ改築シ、既ニ着手七分通リ出来候モ冬期積雪ノ為、末タ竣工ニ至ラス、三四月頃全部出来ノ見込ニ御座候。
大正四年二月七日
田原村役場御中

(4)長福寺住職から田上熊次郎宛照会状
謹テ貴家ノ光栄ヲ祈ル、扠テ別紙縁起ヲ有スル観音ノ霊像古来本村ニ安置申候ガ、昨年末御堂改築ノ儀起リ依テ其縁起中不明ノ処ヲ貴村役場ニ照会致候処、詳細ナル御通報ニ預カリ一同深ク感謝致居候、而シテ貴家ノ増々子孫繁昌ニテ有之ル趣キニ就テハ実ハ一同感涙ノ迸ルヲ覚ヘサル迄ニ喜ヒ申候。
就テハ尚ホモ取リ調ヘ度キ儀有之、貴家ニ御願申上候次第何卒左記ノ事共、可成至急御通知被成下度伏シテ奉願上候
敬具
大正四年二月七日     観音寺村 浄土宗 長福寺住職 観音堂管理者 長沢俊静
田上熊二郎様
一、貴家何宗何寺ノ檀徒ニ候ヤ
一、当地方ニ回国セシト云フ九郎衛門殿ノ法名及其年月日
一、九右衛門殿ノ両親ノ法名及其死亡年月日
 右二条ハ当地回国ノ年号ヲ考フルノ資料及御三名ノ法名当観音堂ニ納メ
 各歳大法要ノ節ニ御供養ヲ申度キ為ナリ。
一、貴家ノ先祖ヨリ現戸主迄ニ何代位ニシテ何百年位ノ御家ナリシヤ
尚御三名ノ法名及死亡年月日、貴家ニ於テ不明ノ節ハ貴家ノ菩提寺ニ至リ過去帳ニ依リ精々
御取り調被下度候也




(5)田原村村長から正念寺当て過去帳調ノ件照会状
一、庶第二七八号
 大正四年五月八日   田原村村長 佐藤秀雄
 正念寺住職 吉村英覚 殿
 過去帳調ノ件
 貴寺檀徒
 大字五ヶ所一〇三二番地田上熊次郎ノ父粗ノ縁故調査致度候處、仝家墓碑等調査候得共判明間、貴寺過去帳ニヨリ仝人祖先ノ出生死亡年日並ニ法名等御取調ベ相煩度、仝家ニ於テ累等相分リ居リ候系統ハ左記之様ニ被存候間御参考迄ニ御達候也。
現戸主 熊次郎 父新平 祖父鶴治 其父富治 其父庄吉 其父浅助 其父九右衛門」




(6)大正四年正年寺住職から田原村村長宛回答状
「大正四年五月四日付ヲ以テ過去帳ノ件御申越相成る、不取敢調査ニ及候処
 当寺過去帳第一号ニ左記ノ如ク記載有之候間、其ノ以前ハ分明不致候
 尤往古ハ至リテ簡約ナル記載方ニテ年齢等モ記載無之候
 右御回答申候也
  大正四年五月十日 正念寺住職 吉村英覚
 田原村村長 佐藤秀雄殿
 明暦元乙未年三月十九日 死亡
 五ヶ所 嶽 九右衛門事」




(7)山形県飽海郡八幡町観音寺字町鎮座 長福寺観音堂由来
身代開運 千手千眼観世音菩薩観音堂由来
九州第一の高山祖母岳日向国西臼杵郡祖母岳の麓嶽村に百姓九郎兵エという人があったが、不幸にして四十余才で世を去った。若くして夫を失った妻は一人の九右エ門の成長を楽しみにわずかばかりの田畑を耕してささやかに暮らしていた。心やさしい母に似ず九右エ門は性来粗暴にして幼少の頃より生あるものを殺すことを好み、母は憂きことに思って諌めるも露ほどもききいれなかった。長ずるに及んで射術に妙を得百発百中の技を持ち、山野に出て狩猟を事としていた。母は大いにこれを歎き、ひそかに観音様を信仰してわが子の殺生を止めさせ給えと祈願していた。秋のある日、いつものように鉄砲を携え山深く分け入り足場を構えて獲物を待つうち大鹿が現れたのでよき獲物ぞと火ぶたわ切った。狙い過さず打ち倒したと覚えたに不思議にも鹿の姿は失せ鬼神の如き丈余の怪物が現われ、両眼鏡のように自分をにらむのであった。剛気の九右エ門何の怪物ぞと手早く弾込めして両眼ねらって第二弾を放った。更にひるむ気配なく益々形相物凄く眼光きけいとしてわれを射るのであった。気おいたった彼は第三弾をたまごめするにどうしてか心移り気あせるも両腕しびれて動かず流石豪勇の彼も進退極まって思わず「南無大悲観世音」と叫んでばったり倒れた。気づいた時は夜は明けそめて紫のもやかすむ静かな朝であった。心次第に落ち着いた彼は大鹿の心あたりを探す鹿はなく、とある岩かどに観世音の御尊像がおわしたので驚きの余りよく拝めば左の目尻と胸のあたりに弾丸の痕があるのでないか。もったいない。情けない。母の戒めも用いず殺生の非行をあえてしたるを悔い、しばらく魂我にかえって九右エ門歓喜雀踊、御尊像を袖に抱き我が家に帰り事の由を涙ながらに母に語るのであった。仏心を悟り発心した九右エ門はこの御尊像を背負い回国巡礼して殺生の罪を償わんと志し、老母を伴い小笠かたむけて故郷嶽村を後にし永の旅路についた。寛永十四年丑年二月九日京都附近の霊地を巡礼山摩尼殿より経書写の奉納を受けた。国を出てから幾山河笈を背負い足どり重く杖をひく毋子の六部、やがて出羽国鳥海山の麓なる里の木影に笈をおろし(現観音堂の地)しばし憩ううち母子共眠気を催しうとうと眠る間に観世音の御姿が現われ「我れこの地に止るべし。」と宣う声に驚いて眠りをさました。やおら笈を背負うとすると不思議、俄に重くして更に動かなかった。夢の示現といい一宇の草庵を結んで御尊像を安置せんことを里人に語り帰途についた。寛永十四年里人この地に堂宇を創建してこれを祀り深く信仰した。即ち御尊像御安着の日御盆の九日をもって月の九日と称し例年祭日とし毎月十七日近村の善男善女相集い終夜香華供養を手向け災厄消除息災延命を祈願する霊験あらたかにして諸願成就せざることなし村人の信仰益々篤し。
大正二年九月山門を建立。同年七月七日土蔵造り再建築境内を整えた。昭和四十一年十一月三日町村合併。以前の観音寺村の戦没者の英霊を合祀。昭和四十六年七月十五日堂宇の増築工事を竣工した。
昭和五十五年十一月一日付荘内観音霊場協会より荘内札所平和観音百霊場として公認指定せされた。
千手千眼観音菩薩の御詠歌
もろびとのあゆみをはこぶ観音寺
 ひろきめぐみぞ とほとかるらん
昭和五十六年三月十七日
八幡町麓長福寺住職観音堂管理者 斉藤定香
信徒総代 高野清
 同 村上泰司
 同 館内作治




(8)観音菩薩と九右衛門(「高千穂町史」より)
今からおおよそ三百五十年程度前に祖母山の麓の嶽部落に九右衛門という人がおりました。小さいとき父が亡くなったので母の手一つで育てられました。なかなか元気のよい子でよく山野を駆け廻り、木に登ることなど猿の様にありました。大きくなるにつれ鉄砲を持ち猟に出て行く事が唯一の楽しみでした。十三才のとき大鹿を射止めたこともあり、九右衛門が一度獲物を見つければ必ず射止める程の名人になっていました。
或とき近所の六助という者と口論をはじめました。ここの庭より国見山の頂上に弾丸がとどかないと六助は言い、九右衛門は必ず的に当てて見せると議論をしているのです。よしそれなら俺が国見山の頂に立っておるから撃ってみよ、もし弾丸が当たらなければお前の鉄砲をもらい受けるがそれでもよいか。九右衛門は承知しました。六助は標的になるために国見山に登りはじめましたが心配になってきました。いくら遠く離れていても九右衛門は鉄砲の名人である。万一弾丸が当たれば俺は死ななければならない、これは考えたものぞと、頂上に登ると着物を脱ぎ、木の枝に掛けて、打ち合わせた通りの合図をして、岩陰に伏して様子を見ていました。九右衛門はそんなこととは知らず鉄砲に弾丸を込め狙いを定めて撃ち放ちました。弾丸は目標の六助の着物の真中を打ち貫いてしまいました。六助は五体のふるえがとまらなくなりました。急いで着物を身につけ九右衛門のところに行き、俺の負けだゆるしてくれとあやまりました。
九右衛門はますます自分の腕に自信をもち、狩猟することに心を奪われてしまいました。母はこうした九右衛門の毎日があわれに思えてならず、なんとかして殺生することを止めさせようとするけれども九右衛門は聞いてくれません。止めるどころか俺は猪鹿千匹狩ることを願かけると言っ ト一向に聞き入れようとしませんでした。日頃から観世音を信仰し慈悲深い母は九右衛門が一日も早く改心して狩猟を止めるようお祈りしていました。
いよいよ九百九十九匹を狩り後一匹で千匹という日が来ました。九右衛門は、いろりのそばで弾丸作りをしていました。ろばたには一匹の黒猫が寝そべり九右衛門が弾丸を作るのをじいっと見ていました。一つの弾丸が出来、畳の上をころがすと猫は一寸手を出してその弾丸にさわります。十二個の弾丸を作ったのに同じ様な仕草で全体に手をふれるのです。九右衛門は一向に気にも止めず、普通の子猫がじゃれるのと同じものと思っていました。この猫は三ヶ月前どこからともなく現れ九右衛門の家に住みついたものでした。
九右衛門は今晩こそ千匹の猪を射止めんと勇んで十二個の弾丸、火薬など用意して鉄砲を肩にして筒ヶ岳の下の狩舎めざして出かけました。夜も更け、あたり一面静かになった午前二時頃、麓の方より九右衛門ヨ−イ、九右衛門ヨ−イと呼びながら登ってくる者があります。その声は母の声にもよく似ておるので九右衛門は不思議に思いました。この夜道に険しい山の中に母一人で来る筈もない。若し急用が出来たのなら隣の家の人達に頼んで来そうなものを、まして提灯か、たいまつをともして来る筈なのにと狩舎の壁からのぞいて見ると、真っ黒な丸い者が登って来るのが木の間にチラチラと見えるのです。これはどうも妖しい、怪物の変化ではないかと、直ちに火縄に火を移し、狙いを定めて撃ち放ちました。これはどうしたことでしょう。弾丸はカーンと音を立てて、はねかえりました。さてはこれこそ怪物に間違いないと残り十一発を矢継早やに撃ち放ちましたが、どれもカーン、カーンと音がするばかりです。九右衛門が十二発の弾丸を撃ち尽くしたと思ったのでしょう、妖怪は、いきなり立ち上がり、眼はギラギラと光り、真一文字に、九右衛門目がけて飛びかかろうとしています。このとき九右衛門は秘蔵の切り矢(猟師が自分の命が危ない時使用する弓矢八幡大菩薩を切り込んだ弾丸のこと)を手早く込めて、弓矢八幡大菩薩、何卒九右衛門の危急をお救い給え、と念じつつ引き金を引けば怪物は「ギャ−」と一声妖しき声をあげ麓の方へ転げ落ちて行きました。
九右衛門は夜明けを待って、矢切り(獲物に命中した場所或いは弾丸の落ちた場所)を調べてみれば、妖怪の逃げた方向に沢山の血が落ちているのです。その血を辿りながら行くと、我が家の方に続いているので、ひょっとしたら母ではなかったかと急ぎ家に帰って見れば、母は朝食の準備中で、いつもと少しも変わったこともないのでホッと胸を撫で下ろし、血の跡を見れば、かまどの下に続いているのです。暗いかまどの中をよく見れば、家に居た黒猫が怪猫となり血に染まって死んでおりました。十二発の弾丸が命中しなかったのは据釜をかぶって居たもので、九右衛門が弾丸を作るとき。何個作るかを数えていたもので、十二発の弾丸を撃ってしまったので、据釜を脱ぎ捨てて飛びかかろうとしたとき、九右衛門の切り矢を脱ぎ捨てて飛びかかろうとしたとき、九右衛門の切り矢に当たってしまったことがわかりました。母はわが子の話を聞きながらこれはきっと数多く猪鹿の亡霊が怪猫に乗り移り、九右衛門を殺そうとしたにちがいないと思いました。九右衛門も弓矢八幡大菩薩と、母の信仰する観世音菩薩の御加護によって難を逃れたことにはじめて思いつきました。
数多くの生き物を殺した罪は到底滅び様もないことを悟り、この上は母の信仰する観世音菩薩の大慈悲にすがるより他に道はないと、発心し、観音像を背負って、母と共に諸国遍路の旅に出かけました。
それから何年の年月が経ったことでしょう。巡り巡って、東北地方の或る村までたどり着きました。路端に一休みしましたが旅の疲れのためウトウトとまどろむ夢に観世音菩薩が現れ、われこの地に鎮座せん、と言われたのに目がさめました。九右衛門はそのまま行こうとしますが観音像が重くて動くことができません。九右衛門はこのことを村人に相談しましたが。村人は心良く引き受けこの地に庵(草葺きの仮の家)を建て観音像を安置しました。
その後九右衛門は御堂を里人に譲り郷里五ヶ所に帰り明暦元乙未年(1655年)三月二十九日眠るが如く大往生を遂げたということです。
観世音菩薩は今なお山形県飽海郡観音寺(現在八幡町)に安置され、この地方の人々の信仰を集めているということです。(終わり)




(9)甲斐畩常「高千穂村々探訪」1992年の232〜234頁より
五ヶ所の嶽の九右衛門の話
「今から三百五十余年前嶽部落に九右衛門という猟師がいた。小さい時から狩が好きで一度見つけた獲物は逃した事がなかった。得意になり狩に心を奪われ、殺生に明け暮れる毎日に母は心配し、日頃信仰している観音に子供の改心を祈っていた。いよいよ明日一匹で猪鹿千匹になるという夜、九右衛門は弾丸を作っていた。すると其の夜何時から住みついたかわからない黒猫が一つ弾丸ができてころがす度に黒猫は手を出して触っていた。九右衛門は猫のジャレ事だとばかり思って十二発の弾丸を作り上げ翌日山に登って筒ヶ岳の狩屋に入った。その晩夜が更けてから「九右衛門ヨ−イ」と呼びながら登って来る者がある。真っ黒な丸い形をしているので之は怪しい変化だと思い狙いを定めて撃った。「カーン」と音がして弾丸ははね落ち黒い丸いものは段々近づいてくる。弾丸こめも忙しく又射撃したが皆同じように「カーン」と音がして落ちる。十二発打ちつくしても同じで十二発放ったとたん黒い丸い物は目もギラギラと夜目にも光り今にも飛びかかりそうである。九右衛門は秘蔵の切り矢と称する八幡大菩薩の切り印のある護身用の弾丸を今は之しかないと銃に込めて放った。怪物はギャ−ッと声を放って倒れあやうく九右衛門は難を逃れた。翌朝になって見ると死体はない。点々と落ちている血をたどると我が家の方に向かっている。そう言えば昨夜の「九右衛門ヨ−イ」の呼び声は母の声に似ていたのでもしやと思って急いで帰って見ると、その血は竈の下に続き黒猫が血に染まって死んでいた。九右衛門は始めて「八幡大菩薩と母の信ずる観音の御加護に目覚め、母と共に観音様を背に負い諸国遍路供養の旅に出た。東北の或る村へ行き道傍に下ろしてうとうとしたまどろみの中に「我はこの村に鎮座したい」との観音のお告げを聞き村人に相談した。そして鎮座された所が山形県飽海郡観音寺村で今合併して八幡町大字観音寺であるという。此の話は五ヶ所村に残るだけでなく山形県の八幡町に問い合わせたところ同町麓長福寺斉藤住職信徒総代の方の「身代開運千手千眼観世音菩薩観音堂由来」を送っていただいた。之によると全く同じ話「九州第一の高山祖母嶽日向国臼杵郡祖母嶽の麓嶽村に百姓九郎兵衛(九右衛門が九郎兵衛となっている)の話が寛永十四年丑年二月九日京都附近の霊地を巡礼山摩尼殿より経書写しの奉納を受け、足どり重く杖を引く毋子の六部此所出羽国鳥海山の麓のる里の木影に笈をおろし、しばし憩う内眠気を催し云々」と書かれている。それから御尊像安着の日お盆の九日を月の九日と称して例年祭日とし、毎月十七日善男善女集い終夜供養しているとの事である。黒木正継氏及五ヶ所の人を含め有志同町訪問の話が今起こっている。同行したいものと思っている。」


田上武雄氏宅に伝わる久右エ門の火縄銃
   五ヶ所嶽の久右エ門の墓


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