古墳時代
弥生時代後期に各地で地域的な統合がすすみ、その首長の墓として地域色豊かな墳丘墓が出現しました。3世紀後半になると、これら墳丘墓を母体として、画一的で巨大な前方後円墳が、西日本各地に造られました。この地域の有力首長層の間に、畿内を中心とした連合体が形成されたためと考えられています。
前方後円墳の作られた3世紀後半から6世紀までを古墳時代といいます。
7世紀になると前方後円墳が姿を消し、古代国家が成立します。
古墳の出現と展開
3世紀後半、西日本各地に出現した古墳は瀬戸内海地方を中心に分布しており、九州では大分県の赤塚古墳や福岡県の石塚山古墳がその代表的なものです。次の時代になると、古墳の分布は急速に拡大し、4世紀後半には東北地方南部から南九州にまで展開するようになります。
宮崎県では、4世紀後半に位置付けられる西都原13号墳が一番古く、この時期までには宮崎県南部の首長層も、畿内を中心とした政権に加わったことを示しています。高千穂では、この時代の様子は6世紀にならないとわかりません。
横穴墓(肥後との交流)
宮崎県では高千穂地方にしか見られない、特殊な形をした横穴墓があります。今狩・河内・一本木・吾平原・北平・南平55-1・2号横穴墓がそれで、玄室に屍床をもち、石枕を造り付けるといった特徴が見られます。この特徴を『肥後型』といい、古墳時代6世紀の高千穂と肥後との交流を物語っています。
田原南平9〜10号横穴墓
岩戸5号横穴墓 岩戸6号横穴墓
馬具について
古墳時代に、乗馬の風習とともに伝わってきました。馬を制御する轡(くつわ)・面がい(おもがい)、手綱(たづな)や騎手を安定させる鞍(くら)・鐙(あぶみ)、馬を飾り立てる雲珠(うず)・杏葉(ぎょうよう)などがあります。
子持勾玉
大きな勾玉にさらに小形の勾玉が付属した古墳時代の玉で、主に滑石で作られています。
祭り事を行った場所や、単独で見つかることが多いことから、単なる装飾品ではなく、霊力を持った呪術具と考えられています。
※五ヶ瀬町桑野内出土「子持勾玉」は、当館パンフレットにも写真を掲載していますが、五ヶ瀬町より返却の希望が出され、県文化財課などとも相談の結果、地元である五ヶ瀬町に返却しました。(2012年9月5日。)
子持勾玉(五ヶ瀬町出土)
丸山石棺群(西臼杵郡高千穂町)
丸山石棺群は、標高620mの細長い丘陵東斜面にあり、石棺10基と横穴墓2基が発見され、そのうち石棺3基が調査されました。
昭和52年に調査されたB号石棺は、長さ175cm、幅55cmの大きさで、6枚の板石(阿蘇凝灰岩)を組み合わせたものでした。
石棺の中には刀子4・鉄環1・平玉55が副葬されていました。この副葬品と構造から、古墳時代のものと考えられます。直弧文を施した鹿角装の短剣が出土した他の石棺は、5世紀までさかのぼる可能性があります。
一本木横穴墓(西臼杵郡高千穂町)
一本木横穴墓は、吾平横穴墓群に属しており、昭和32年に台風襲来の際に発見され、調査されました。
この横穴墓は、玄室の両側に一段高い屍床を造り出し石枕を持っています。玄室の大きさは、奥行き2.2m、幅3m、高さ1.15mで、南東側の屍床で人骨1体と、鉄刀1・刀子2・鉄鏃約70・勾玉3・管玉6・素環鏡板付轡1・鐘形杏葉4・雲珠4・飾り金具2が出土しました。鐘形杏葉は、県内では持田古墳群で出土しているだけの珍しいものです。この墓は、副葬品から6世紀後半に造られたと考えられます。
押方南平横穴墓群(西臼杵郡高千穂町)
押方南平横穴墓群は、標高313mの北西向き斜面にあり、昭和55年に、栗林造成中に2基が発見され、調査が行われました。2基とも玄室の両側に一段高い屍床を造り出し、石枕をもつものでした。
1号横穴墓は、玄室の奥行きが2.0m、幅2.5mの規模をもち、入口を板石でふさいでいました。副葬品には、刀1・刀子7・鉄鏃50・素環鏡板付轡1・辻金具2・小玉44・管玉1・切子玉2・須恵器があり、これらの時期から6世紀中頃から後半にかけて造られた墓と考えられます。
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