旧石器時代のあと今から1万2千年ほど前から2千3百年前までのおよそ1万年ほどを縄文時代といいます。旧石器時代に引続き狩猟・採集によって成り立つ社会ですが、土器が使用されはじめたこと、弓矢が出現したこと、漁労が始まったことなどが大きな違いとして指摘できます。
中でも、土器の使用は食生活に大きな変化をもたらし、生のままで食べることができなかった植物が、煮炊きによって食料となりました。
縄文時代の生活は、移動と定住のくりかえしによって維持されましたが、このような新しい食料の開発によって定住の時間が長くなり、集落も大きくなって行きました。
高千穂の縄文土器
縄文土器は、その形や文様の違いから、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられています。高千穂では、各時期の土器が出土していますが、陣内遺跡に代表されるように、西平式・三万田式・御領式などと呼ばれる後期後半から後期末にかけての土器がたくさんみられます。
この時期の土器は黒く磨かれた土器(黒色磨研土器)に特徴があり、いろいろな形の浅鉢などバラエティに富んだ器形が現れてきます。
これらの土器から、当時は宮崎県中・南部よりも熊本・大分県地方との交流が盛んだったことがわかります。
縄文人の生活
★縄文人の精神文化
縄文人の精神文化の具体像を探ることは、容易なことではありません。しかし、自然の恵みに大きく依存していた彼らが、安定していた生活の中にも、時として襲ってくる飢えや病気を恐れていたことはたしかです。
土偶や石棒などは、自然の力を恐れ、動植物(食料)の豊かな成長を祈った祭りの道具(呪術具)と考えられています。
石棒(レプリカ)
★縄文カレンダ−
日本列島は四季の変化がいちじるしく、狩猟・採集・漁労といった自然の恵みに依存していた縄文人は、自然の移り変わりに対して正確な知識を持っていました。
春の若芽つみ、夏の漁労、秋のドングリやクルミなどの木の実取り、冬の狩猟と縄文人は一年間の生活設計を行い、四季の変化こそが縄文人のカレンダ−そのものでした。
土偶
土偶は土を焼いた人形で、ほとんどが妊娠した女性をあらわしており、又、一部が壊された状態で発見される事が多いことから、多産豊穰や、傷病治癒を願うためのものと考えられています。
土偶は東日本に多く、西日本には少ないのですが、九州には意外に多くの土偶の出土が知られており、特に阿蘇外輪山を取り囲む地域に多いことが注目されます。
土偶(レプリカ)
陣内遺跡(西臼杵郡高千穂町)
大字三田井字車迫にある縄文時代後・晩期の遺跡で、1956年7月に神道文化会の調査、1960年9月に県教育委員会、1980年2月に町教育委員会の発掘調査が行われ、1976年3月に県指定史跡となりました。
これまでの調査で、県内唯一の土偶や石棒、数例しか知られていない石刀をはじめ、打製石鎌や石斧・十字形石器・石匙・石錐・装身具などの石器や三万田式・御領式に相当する後・晩期の土器が多数出土しています。
セベット遺跡(西臼杵郡高千穂町)
セベット遺跡は、高千穂神社南方の小高い丘陵にあります。昭和18年、石川恒太郎氏が竪穴住居の跡を発見し、昭和58年に、神殿団地建設に先だって発掘調査が行われました。
その結果、縄文時代晩期前半の竪穴住居が一棟見つかり、土器・有舌尖頭器・打製石鏃などが出土しました。
梅ノ木原遺跡(西臼杵郡高千穂町)
梅ノ木原遺跡は、県道緒方・高千穂線沿いの三田井尾谷地区にあります。昭和59年調査が行われ、縄文時代後期後半の西平式土器・磨消縄文系三万田式土器や晩期前半の突帯文土器と共に、扁平打製石斧・打製石鏃などが多数出土しました。
又、弥生時代の竪穴住居も一棟見つかり、後期中頃の甕が出土しました。この甕は、五ヶ瀬川上流域や大分県の大野川上・中流域に分布するもので、工字突帯が特徴的です。
梅ノ木原遺跡
稲作文化
★稲の来た道
紀元前3世紀ごろ、水稲農耕技術が金属器・磨製石器・織物の技術等と一緒に伝えられ、まず、北部九州にねづきました。
稲の伝わったル−トは幾つか考えられますが、中国華南地方から朝鮮半島を経由する道が有力となっています。
★稲作の広がり
まず北部九州に定着した稲作技術は、その後急速に東に広がり、またたくまに東海地方西部まで伝わりました。そして、紀元後1〜2世紀ごろには北海道や沖縄を除く全土に稲作農耕を基盤とする社会が成立しました。宮崎には、前期の中頃、平野部に伝わりましたが、高千穂地方では中期の後半ごろになるようです。
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