宮崎県周辺の古文書にみる彗星の記録

※一部、熊本県の古文書も含んでいます。


1680年、キリッチ彗星
 
宮崎県「宮崎県史史料編近世1」1991年のP218に「高千穂町大字上野の正念寺文書」があり、その中に五ヶ瀬町の「高千穂三ヶ所眞楽寺方順日記」を正念寺の寛隆が写した記録が残っており、延宝8年(1680)の記録として次の記載があります。
「延宝八年かのへさる十月初より
○西の山はほシよりけむり出、其けむりノはば三尺程ニして、東六分迄ニひき渡り申候、此ほシ三十日程、其ことくに御座候、此ほシノ名よねほシと申候。」と書いています。

 矢津田文書の「珍書雑記」の中で、向山村庄屋飯干覚野右衛門が記録していた文書を向山村庄屋兼帯飯干栄左衛門が七折村佐藤伊兵衛に貸し出し佐藤伊兵衛が書き写した物を天保6年未、閏7月に矢津田喜多治義廣が宮水代官所で書き写したと書かれている記録にキリッチ彗星らしい記録があります。
 「延宝八年十一月、西の方へほうきぼし出ル。」と書いています。


1768年、メシエ彗星
 
宮崎県「宮崎県史史料編近世5」1996年のP957に「高原町大字蒲牟田の永浜家文書(永浜公法氏所蔵)高原所系図壱冊(天保四年十二月吉日)」があり、次の記載があります。
 「明和六年丑七月ホウキ星出ル、同七月二十九日晩より翌朔日迄大風、同年九月二十八日大地震、小長野溝筋破損諸所有る之。」と書いています。


1825年、ポンズ・ビニラ・ダンロップ彗星

 熊本県阿蘇郡の長陽村史編纂室「長野内匠日記(1)釈文」2004年のP136に文政8年8月の記録として「同二十六日辛巳日雨降…(中略)…南方ニ不思議の星出ル是始而見ユル毎晩出ル也」と書いています。


1835年、ハレー彗星

 熊本県阿蘇郡の長陽村史編纂室「長野内匠日記(1)釈文」2004年のP219に天保六年八月の記録として「同晦日丙戌卯ノ下刻より雨強降申時雨止ム。當月中頃より南方ニ彗星出ル。」と書いています。



1843年、グレート・マーチ彗星
 宮崎県「宮崎県史史料編近世5」1996年のP806に「三股町五本松重信家旧蔵文書(福岡市九州大学大学院比較社会文化研究科九州文化史研究所所蔵フィルムによる)勝岡郷蓼池村南屋敷名頭日誌(文政十三年八月二十二日〜明治二十八年八月二十四日)」があり、次の記載があります。
 「一 不思議之星申酉ノ間当りて白雲の引シ如ク長ク相見得、星と名付候得者、天文堂ニ而吟味有之候者、世上の塵を吹上ケ夫レニ火付、雲のことく星の如ク相見得候、何ぞ善悪ニあらすと云々、天保十四年卯二月四日比より同二十比迄右之通相見得候。」と書いています。

 宮崎県「宮崎県史史料編近世5」1996年のP971に「高原町大字蒲牟田の永浜家文書(永浜公法氏所蔵)高原所系図壱冊(天保四年十二月吉日)」があり、次の記載があります。
 「一 天保十四年卯二月七日夜六ツ半ヨリ五時半迄之間、西の方ニぼけ色之雲出、其形横壱尺計・長さ弐拾広計、同二十八九日夜迄色雲、二十日計後うすくなる、酉之方より巳午之間ニ長さ打つ其形

        /中\西
       / ぼ \
      /  け  \
     /   色   \
    /    あ    \
   /     き     \
         東               」と書かれています。

 熊本県阿蘇郡の長陽村史編纂室「長野内匠日記(2)釈文」2004年P2の天保14年2月の記載に「同七日庚辰寒強雪降晩ニ西南之方ニ當り白キ雲氣長サ二十間斗と見へ三時ばかり立」と「同九日壬午寒シ湯谷より帰ル又西南之方ニ當り山のはより雲氣立三時斗きへず」とあります。P3の天保14年2月の記載に「同十三日丙戌曇寒雪少降晩西南方ニ奇雲又出る」「二月十八日辛卯晴天晩ニ奇雲出ル」「同二十一日甲午晴天晩方ニ奇雲出」「同二十二日乙未晴天後次第に曇ばん方ニあやしき雲みゆる日輪二ッ出ル」「同二十六日己亥晴天奇しき雲空ニ見ゆる…(中略)…奇雲の図長サ三十間ばかり広弐尺斗次第ニ先ひろし
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俵山のしば峠のへんより図の如ク先キあがりニ二時斗見ヘ次第ニうすくなり後ハきゆる」と連続19日間の記録があります。これも高原町と同様、山で彗星本体が見えていない状態と思われます。


1858年、ドナチ彗星
 岩戸村第12代庄屋土持信贇(のぶよし)は、「安政五年諸御用日記戊年正月吉日庄屋」の8月22日に彗星のことを書いています。
 「暮六ッ時 西ノ方ニ帚星見ユル 当月十七日より顕連候也。寅卯之方ニ尾を曳。長サ数丈也。」と書いています。

  
 
 宮崎県「宮崎県史史料編近世5」1996年のP983に「高原町大字蒲牟田の永浜家文書(永浜公法氏所蔵)高原所系図壱冊(天保四年十二月吉日)」があり、次の記載があります。
 「一 安政五年戊午八月酉戌之間ニほうきぼし出、長さ壱丈五尺計・横壱尺計暮六時下刻ニ出、夜五時上刻ニ入、星入時者弐丈五尺計ニ尾を引相見合候。」と書かれています。

 熊本県阿蘇郡の長陽村史編纂室「長野内匠日記(2)釈文」2004年のP112に安政五年八月の記録として「同十七日己未晴天 今晩方初而亥之方ニ異なる星出る。此星次第ニ南之方之様ニより出る。」と書かれています。


1861年、テバット彗星
 宮崎県「宮崎県史史料編近世5」1996年のP984に「高原町大字蒲牟田の永浜家文書(永浜公法氏所蔵)高原所系図壱冊(天保四年十二月吉日)」があり、次の記載があります。
 「一 文久元年酉五月二十五日暮六時下刻より北亥之方ニほう(き脱)星出ル、星七八寸廻り、尾引事南ニ渡り程有、横三尺計。」と書かれています。



1862年、スイフト・タットル彗星
 宮崎県「宮崎県史史料編近世5」1996年のP984に「高原町大字蒲牟田の永浜家文書(永浜公法氏所蔵)高原所系図壱冊(天保四年十二月吉日)」があり、次の記載があります。
 「一 右同年(=文久二年)戌八月三日夜より見始候ほうき星出、夜五ツ時分間上ニ相見得、東より西ニ渡ル、尾四尺計り。」と書かれています。



1882年、9月の大彗星
 甲斐有雄日記の明治十五年(1882)に、文章とスケッチがあり、
「旧八月十日北東ノ方ニはふき不し出、二十五六日頃巽方ニ巡る。夜明前。夜明の明星。薄赤色。はたニ似たり。
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              / /
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             ○       」と書かれています。
※この文書の現物は、熊本県立図書館にあり、高千穂町コミュニティセンター(歴史民俗資料館)にコピーがあります。
※甲斐有雄が1882年9月の大彗星を見た場所は、厳密には熊本県阿蘇郡高森町と思われます。
 

 高千穂町「高千穂町史郷土資料編」2002年のP234に岩戸村第12代庄屋土持信贇(のぶよし)の「日記」の明治15年(1882)10月13日に帚星の出現を東京新聞で見たと書いています。
「○帚星之事 九月二十四五日頃より東の方に出る由、東京新聞にあり、此の辺にても見たる人多し。午前五時過ぎに出るよしなり。我も十四日暁に見たり、辰の方に出る。是れ迄出たる帚星の類にあらず。長さ三十間もあるべし。幅三間位と見ゆる。其の色白し、尾より辰の方山の端に見えそめ、立ち登る星は外の星より太くなし。曇りて光りなき星なり。其の星山を離れてたちのぼるとみるほどに、夜あけて見えずなるなり。朝鮮之事件破れて戦争なるべき前表から取るに云ひ沙汰する也。」と書かれています。

  

 熊本県阿蘇郡の長陽村史編纂室「長野内匠日記(3)釈文」2004年のP225には明治十五年八月の記録として「同五日戊子晴辰巳之方ニ當而異星を初て見る。八月此星は出ると 慧(彗?)」と書かれています。


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