国郡の制度と高千穂
大化の改新では、それまでの国造・県主などの支配していた土地や住民は大和朝廷の支配下におかれ、国郡の制度がしかれました。この制度で日向国には5つの郡がつくられ、郡はさらにいくつかの郷に分けられました。
この頃の記録に、日向国臼杵郡智保郷。肥後国阿蘇郡知保郷と書いた郷名が見受けられ、もともと九州中央部の広い地域にあった古代高千穂は、新しい国郡制度の制定で二つに分けられたのではないかと考えられています。
高千穂荘の起こり
平安時代も半ばを過ぎると、律令国家の基本である公地公民制がくずれ、土地の私有化(荘園化)がすすみ、貴族や社寺は支配下の住民を使って開墾をすすめ、ますます多くの土地をもつようになりました。
特に、中央から遠く離れた日向では全域が荘園化され、こうした中で智保郷は高千穂荘と呼ばれるようになり、江戸時代まで続きました。
高千穂荘の支配者
奈良〜平安時代に高千穂地方を支配していた豪族は確かな記録は残っていませんが、三田井氏の祖先と古代山部の氏族である興呂木氏の存在が考えられます。
「高千穂古今治乱記(1802年)」には、家系の絶えた三田井氏が950年頃、豊後の大神大太惟基の長男政次を養子に迎え、高千穂太郎を名乗ったと書かれています。その後、高千穂荘は高千穂太郎の子孫が高千穂氏を名乗り、安土・桃山時代まで支配しました。
高千穂太郎の墓 高千穂太郎の神面(毎年4月15日に行われる高千穂太郎祭)
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